Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

理系と国語

 理系にも国語が重要なことか取り上げられていたが(能力の高いプログラマーほど数学力より言語能力が高い | ナゾロジー)、同様に文系にも数学は重要であると私は考えている。かつての大学入試(特に国公立大学)では基本的に全ての教科の試験を課し優秀な生徒を確保していたが、私学の受験科目数の少ないシステムに押されて、徐々に変化していった側面があると見る(すべてではない)。科目数以外にも、推薦入試やAO入試の割合はどんどんと上昇している。既に45%近くがこの両者による入学者(推薦・AO、実は大学入試の「大きな柱」入学者の約44%|ベネッセ教育情報サイト)となっている。

 多様な入試制度を否定するつもりはないが、それは入学後の不足する学力のフォローがある前提だと考えるべきではないか。工大連携(大学への早期入学及び高等学校・大学間の接続の改善に関する協議会(平成17年度〜) 協議経過の中間的な整理 3.高等学校と大学との接続における一人一人の能力を伸ばすための連携(高大連携)の在り方について−文部科学省)により基礎学力指導を行っている大学もあるが、その割合は十分ではないように感じている。要するに、門戸を広げてもその後は放置といった感じであろうか。もちろん、この問題に対応されている多くの先生方がいるであろうことは承知している。ただ、大きな構図として少子化による大学選択の緩和は学生の学ぶべきことやタイミングを奪い取っている可能性がある。同時に、入学が容易になることで学ぶべき場所の陳腐化にもつながっている。結局のところは大学の数が多すぎる(同時に大学で教える教員が多すぎる)というのが全てではあるが。

 

 さて、私も出身は理系である。大学入試時には英語と国語の成績が一番悪かったと言うくらい典型的な理系であった。それも、受験に向けて全体の2/3以上の勉強時間を英語と国語に投入したにもかかわらずである。個人的に高校時代には小説を読むのが好きだったが、読書量が成績に結びつくわけではないことは身にしみてわかった(読書の傾向が偏っていたというのはあるだろう)。

 さて、大学では分野によって多少の違いはあるだろうが。理系では専門知識を新しく覚えていかないといけないのは基本事項である。ただ、その後の応用段階において自分なりのイメージを構成して組み立てることが求められる。知識の吸収(記憶)は断片的でも可能だが、この構成の段階で躓く人は少なくない。大きな絵図を描くことに不慣れなのだと思う。プレゼン能力の向上を謳うところも少なくないが、それ以前の問題があるように感じている。

 

 翻れば、個人的に理系・文系の区分自体がほとんど意味のないものだと以前から考えてきた。社会は別に理系と文系で分断されているわけではないし、それをすることにより得られる社会的利得はそれほど高くない。理系でも経営能力に優れた人は存在するし、文系でも分析能力に優れた人も同様に少なくない。ただ、社会に入る初期に個人の資質を見る上で利用できる簡便な区分けであることから、あくまで便宜的に社会で取り入られている方法と言える。

 一方で、最近では文理融合という掛け声も多くかかるが、重要なのは無秩序に文理を融合することではない。むしろ、理系でも文系でも自分の核となる専門をしっかり身につけ、その上で理系・文系の区分に囚われず自分の力を広げていくことだと思う。スペシャリストでありつつも総合能力が問われるゼネラリストとなること。もちろん、専門家として生きる道もあるし、幅広い調整能力を生かす道もある。人に与えられる道は一つではない。

 

 社会というものは複雑怪奇な存在である。一つの考え方ですべてを理解し見通すことはできない。人は不確実で不定形な存在であり、化学物質や計算式のように常に同じ答えを出すこともない。それが苦手で理系の世界に籠る人もいるが、皆がそうでは社会は回らないのである。結果として、スペシャリストもいるが総合力にたけたゼネラリストも求められ、すなわち理系にも国語や英語が求められる。特に、国語は非常に重要だと思っている。

 実は、数学が苦手な原因が国語力の不足という意見が散見される。私もその考えに同意する。単純な計算ならいざ知らず、実際の問題を計算式に落とし込むようなケースでは問題を如何に的確に理解するかが問われ、その全てが国語力で説明できる訳ではないものの、国語で培われる能力が大きく寄与すると考えるからである。

 そして、国語力の最大の不足は読書量の問題もあるが、長い文章を書くこと、特に多くの人に読まれる文章を書く力の不足にあるのではないかと考えている。別に、調査を行ったわけではないので、日々の生活の中から抱いている感想に過ぎないが、自分が伝えたいことを上手く言葉にできない学生が多いのだ。

 

 論理的な思考や進め方については、ロジカルシンキングロジカルシンキング - Wikipedia)やオブジェクト指向オブジェクト指向 - Wikipedia)などでも取り扱われるが、別に複雑なことを言わなくとも、自分の頭の中にあるいろいろなことを、他人にわかるように組み立てて説明するだけのことである。ところが、これが慣れていないとなかなか難しく、的確な説明ができないことで落ち込んだり、感情を爆発させる子供をよく見かけるであろう。

 似たような状況が、癇癪は起こさないものの社会に出る直前の大学生でも見られるという現状がある。私は、大学における国語教育に充実に力を入れるべきではないかと思うのだがどうだろうか。もちろん、同じことは小中高校でも取り組むべきだと思う。だが、英語能力以上にこちらの方が急務であるという考えはあまり受け入れられないようにも思う。英語も必要だが、それ以上に日本人としての考え方ら論理性を先に身につけるべきだと思うのだが。