Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

トランスジェンダーと女子スポーツ

 数年前より、アメリカを中心に性別を女性に変更した男性がスポーツ界で優秀な成績を上げることが増えてきている(トランス女性選手が陸上競技女子の枠でトップ独占し、生物学的な女性選手が苦境に。スポーツの公平性を訴える動画が話題に(FINDERS) - Yahoo!ニュース)。LGBTの概念に含まれるトランスジェンダーと言う存在で、すでに日本でもお茶の水女子大学が生物学上の性別が男性であっても、性自認が女性的であれば入学を受け入れると発表している(「トランスジェンダー学生受入れに関する対応ガイドライン」の公表について | お茶の水女子大学)。ただ、日本でのスポーツ分野の変化はアメリカほど激しくないため見逃されがちだが、アメリカでは女子スポーツそのものが揺らぐような状況に拡大しそうである(Male Transjacking Will Ultimately End Women's Sports)。現在は、オリンピック委員会はトランスジェンダーによる女子競技参加に関し、調査検討中ということで認めてはいないが、どこかの段階で大きく火が付くであろう。もちろんトランスジェンダーの選手たちは、女子競技に参加できるのは当然の権利であり、それを妨害するのは人権侵害だと考える(トランスジェンダーの自転車王者、女子種目出場禁止は「人権否定と同じ」 写真9枚 国際ニュース:AFPBB News)。(1/25追記:バイデン大統領はトランスジェンダー選手が女子競技に参加することを妨げてはならないという大統領令にサインしたとの情報もある。ただし、LGBTへの差別禁止が主なので競技への参加を直接言及したものではなさそうである:バイデン大統領が就任初日にLGBTQ差別禁止の大統領令に署名し、コミュニティから続々と賞賛の声が上がりました | LGBT研修・セミナー・マーケティングのOUT JAPAN Co.Ltd.(アウト・ジャパン)バイデン大統領令にLGBTQが歓喜もスポーツ界からは懸念の声(東スポWeb) - Yahoo!ニュース。どちらにしても今後の展開を注視したいと思う。)

 

 個人的な意見は、生物学的に男性の肉体を持っていれば女性より明らかに筋力等が高いため、性自認(あるいはテストロン値:男性ホルモンの量抑制)のみをもって女性競技に参加させるというのは不平等であると考える。不当に貶められていた性的マイノリティの権利をある程度拡大することに対しては必要な部分もあると思うし、それをもって差別をしようとは思わないが、近年の流れは少々行き過ぎではないかと思うケースもある。

 そもそも男性と女性のスポーツ競技を分けているのは、生物学的な差により平等な競争が為されないという認識があるからであろう。極端なことを言えば人間にはそれぞれ種々の差があり、男女と言う二分ではとてもではないが区分できるものではない。それでも女子サッカー代表が高校生にも負け、女子テニス王者が男性のランキング100位に敗れるという避けることのできない現実があり、それを区分するのが妥当であるという認識に基づいて現在のルールが作られている。性別による区分だけでは完ぺきではないが、それでも多くの人たちが時間をかけて妥協できる区分であると考えてよい。更に言えば、体重が大きな違いを生み出す競技(ボクシング、柔道、レスリング他)では体重別のランクが用意されている。

 仮に性自認が女性であったとしても、生物学的な成長により男性的な肉体を得ているとすれば、競技は男性部門にエントリすべきであろう。人権どうこうではなく、スポーツ競技の建付けにおける公平性の問題である。あるいは、トランスジェンダー部門を設定して男女問わずに行うというのもあるかもしれない。そうすべきと考える理由は、この状況が広がれば女子競技が成立しなくなってしまうからである。全ての女子競技においてトランスジェンダーの元男性がトップを占めるようなことが生じたとして、それを応援できる人がどの程度いるのであろうか。何も、トランスジェンダーの人がスポーツをするなとは言わないし、競技に出るなとも言うつもりはない。だが、社会において長年かけて構築された秩序を崩すとすれば、何らかの補正が為されるべきだと思う。

 

 それよりも私が個人的に疑問なのは、今私が書いたようなことが当然として行われずに、既に数年にわたりトランスジェンダーが女子競技に参加し女性を圧倒しているという事実である。ポリティカルコレクトネスは、アメリカの自由さを蝕んでいると個人的には感じている。もちろんマイノリティを抑圧せよと言っているわけではないが、社会が健全に成長しあるいは推移するために支払うコストが高くなりすぎていないのかという議論である。それは「マジョリティの権利を著しく奪っていないのか」と言い換えてもよい。今回の問題では、女子スポーツ選手の権利を不当に奪うことになっていないのかになる。

 社会的な問題は、論理だけで決めることができないケースが多い。感情に支配されるということではなく、積み上げてきた歴史と慣習を容易に覆してよいのかという点に集約される。議論をするのは良いだろう。だが、この問題に関しては世界的に積極的な議論がなされたようには思えない。私の意見は既に述べたようなものであるが、ある側面で見ればトランスジェンダー選手による女子選手への簒奪ともいえる状況は、女子競技の在り方として健全ではないと思う。もちろん、個別に見ればいろいろなケースや議論もあろう。だが、大きな目で見た判断が為されてほしい。今の男女競技区分は、必要があって生まれてきたものなのだから。