Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

変わり者率と非日常の日常化

 メディアの信頼性はかなり低くなったと感じているが、それでも日本における新聞やテレビなどに代表されるメディアの信頼度は世界的に見ればまだ相当に高い(世界各国の「新聞・雑誌」や「テレビ」への信頼度をグラフ化してみる(2017-2020年)(最新) - ガベージニュース)。とは言え、お騒がせな記者がいるのは多くの人も知っている(自衛官に私的戦闘訓練 | ロイターTsukasa Shirakawa(白川司) on Twitter: "共同通信が、自衛官が休暇をとって自主練習しているのを「私的戦闘訓練」と曲解して世界に配信。共同の石井暁記者は土地所有者に「風景を撮る」と嘘をついて写真を撮り、抗議すると「取材妨害で警察に訴えるぞ」と居直ったそうだ。Simon_Sin on Twitter: "『自衛官に私的戦闘訓練 特殊部隊の元トップが指導』)。関連する情報を見た限りの判断なので間違っている可能性もあるが、私からすれば取材する記者も取材された人もかなり独特の人の様である。

 

 人は一人として同じではないため、個性を持っていることは決して非難されるべきことではない。だが社会を集団としてみた場合に、こうした報道に頻繁に登場する人たちは普通に考える一般値から外れており、大部分の庶民から見れば多くの場合かなり個性的である。穿った考えをするならば、世の中で発表される大部分の報道は、こうした個性的な人たちにより構築されている。すなわち、報道に出てくる多くは一般論を示してはない。その上で、それがわざと為されているのではないかと言う疑念を抱かずにはいられない。ホリエモンしかり、ひろゆきしかり。変わり者の変わり者による変わり者のための報道。それがバラエティならよいだろう。日常に疲れた人たちを楽しませるためのものであれば価値もあろう。だが、非常に腹立たしく思うのだが、それが少なからぬ力を持ち日常の社会に影響を与え動かしている。

 特に近年のメディア界では、記事や報道に如何にインパクトを持たせるかが求められており、社会的な平均値からは明らかに異端な人たちが活用される。これは、一般人も容易に情報入手が可能となったからであろう。普通のニュースを流しても関心を惹くことができないのだ。だが、こうした登場人物が求められるのはあくまで少し離れたところから楽しむための非日常であり、日常には侵入してはいけないのではないかと思うのだ。だからこそこれまでの報道では、様々なチェックと検証によりイロモノは排除されてきたと思う。そのチェック作業が何より大切であった。ところが、変わり者の量が増えていくことが常態化したため、近頃の検証作業そのものが曖昧になっているのではないかと感じる。本来、非日常の世界にいたはずの変わり者たちの社会が日常化しつつあるのだ。

 

 考えてみると、これはひょっとするとすごく怖いことではないか。エンタメは、日常と切り離されるからこそ意味があり、報道はエンタメとは一線を引いてきた。だが、近年の状況はその境界を意図してか無意識でかはわからないが曖昧にされつつある。そして私たちの普段感覚は大量の変わり者たちの登場によって染め上げられ、日常と非日常の境界がどんどんと不明瞭になっている。あたかも、それが良いことのように考えられている。だが、これは考え方からすればすごく怖いことではないか。社会における当たり前や常識という概念が徐々に削られ、無秩序が席巻する社会に方向が向いている。

 私たちが自らの人格を認識するのは、自分を構成する様々な環境や要素により構築された自我からであろうが、同じことは社会においても言える。社会が感じる自分たちらしさには幅があってよいと思うが、その中心には同意できる幹(あるいは骨)が必要である。それを取り崩して一時的な享楽を追い求めているような気になってくる。

 

 人は情と理により生きており、この両者のどちらが勝ちすぎてもバランスに欠ける。ただ、情に流されるのは比較的心地よく、それを何とか押しとどめようとするのが理の働きだと思う(だからこそ、理が勝ちすぎると殺伐とする)。個性の氾濫は、理の立ち位置を濁してしまう。理が機能するためには根拠となる芯が必要であり、個性の過剰な暴走はその芯を劣化させていくのだ。もちろん物事には常にバランスがあり、過剰な没個性は逆に社会の発展を阻害すると思う。世の中の大部分の事象は振り子のように揺れ動いている。そして、現在は少数の変わり者が跋扈することを推奨する方向に振れていると感じている。

 私たちが、日常と非日常の境界を失うとそんな問題が生じるだろうか。問題など生じないという人もいるだろう。だが、私は人のアイデンティティが曖昧になり、明確な自我を失う人が増加するのではないかと思う。個性的な登場人物たちは、明確な自我を持っているからよい。だが、世の中に生きる多くの人たちはそうではない。本来社会的に獲得すべきであった自我を、精神社会のアナーキズムとでもいうべき現状により構築が難しくなっていく。だが、報道に取り上げられるのは大部分が個性的な自我を持った人たちのみ、そして、個性を持てと諭される。だが、無理やり強烈な個性を獲得することは本当に必要なものなのだろうか。