Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

努力の量では報われぬ

「努力報われる」バブル時代から39%減少(http://mainichi.jp/articles/20160917/k00/00e/040/201000c)

 上記の様な横浜市のアンケート調査結果に関する報道があった。比較対象がバブル期とではあまり参考にならないような気もするが、そもそも努力が報われるという考え方はどこからきているのだろうか。一般的には、「大いなる努力が必ずしも報われるとは限らない、だが報われた人はほぼ間違いなく何らかの努力をしている」と言うべきではないかと思う。そもそも、どれほど大きな努力をしたとしても方向性を間違ってきれば成功の目はない。逆に小さな努力であっても機を捉え的確に動けば大きな成功を掴むこともある。
 要するに、報われるのは努力の量では無くて質なのだ。スポーツでも、あるいは社会人セミナーでも、優秀なコーチが付くことで成績や成果が飛躍的に高まることは多い。これは会社の上司でもそうだろうし、あるいは学校の先生でも同じ。もちろん自分で最適な道を選び出し、自らを鼓舞して成功への道をまい進できる人は素晴らしいし凄いと思う。だが、世の中の成功者たちも、すべて自分で切り開き為し得た人などそれほど多くはないだろう。さて、だからと言ってアンケート結果に全く意味がないというつもりはない。社会認識がどのように変遷しているのかは重要な指標となることもある。

 ところで、巷では「努力」の重要性を力説しそれに取り組む姿勢を称賛する声は多いが、その質や中身に触れる事例が少ないように思えるのは何故だろうか。東大に子供を入学させた母親の事例が話題にはなることもあるが、いくら書籍を読んでも同じことができるとは限らない。例えば、「努力」に対して「才能」という言葉がある。多くの場合は天賦のものとして人の内部に備わっている認識があるが、「個性」とは若干異なるそれを混同し子供に過度の期待を抱く原因ともなる。ただ、「才能」も磨かなければ発揮されない。そしてその本領発揮のためには正しい道をたどる、正しい努力をしなければならない。
 ところで、子どもの内であればその子の個性も明確には見えず、あるいは努力するということから逃げないようにどんなことにも真面目に取り組むことが素晴らしいと教育する。それは間違ったことではない。社会生活に必要となる最低限の常識や約束事を覚えるのは必要なことなのだから。ただし、あくまで標準的な知識や能力を付けさせることが目的であり、才能を伸ばすというものではない。

 さて、努力はこうした常識を知るための最低限のことを言うのだろうか? 私はそうではないと思う。努力とはこうした基盤の上に積み上げるものだと思っている。機に乗じて大きな努力なしに成功する人がいるのは事実だが、それは一つの成功しか意味しない。その一つで大成功を収める可能性は決して高くない。報われたと実感できるような大成功は数多くの成功の積み重ねにより生み出される。
 すなわち、努力を続けることがそれである。しかし、私は最初に努力は量ではなく質だと書いた。問題は質か量かと言う二択ではなく、両者を兼ね備えることであろう。量のみに集中しても望む成果は容易に出ない。質のみに拘泥してもそれを何度も繰り返すだけの根気が無ければ、十分な成功を維持しえない。結果として、報われる人は努力の質と量を兼ね備えることになる。

 知らぬ者が状況を見れば、不断の努力が成功に導いたと感じるのはおかしくない。だが、闇雲な努力は目隠しをして獲物を捕らえようとするに似ている。結局徒労となってしまうそれは、実は努力ではなく「苦労」である。最初のアンケートに戻るならば、「私がした苦労に比して報われてない」というのが正解だろう。
 しかし、苦労したからと言って報われるものではない。掛ける労力に対してどれだけ効率を上げられるか。それが人よりも成功する秘訣である。そうでなければ、この世界は一生懸命取り組んだものが必ず成功するという社会であるはずなのだから。もちろんそれを理想と呼ぶのは構わないが、容易に成立しえないそれは夢と呼ぶ方がふさわしい。そして、努力の質を向上させるためには良い指導者に付くこと、あるいは自らの頭脳を振り絞ってチャレンジすることが求められる。要するに受動的では容易に成功には至らないという当たり前の話に帰結するのだ。