Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

男子学生の成熟度

 医学部入試における女子学生への扱いが議論となっている(ASCII.jp:順天堂大医学部 女性減点のいい加減な理由 (1/3))。正論としての公平性に関する部分に異論はない。ルールで決めている受験を恣意的にゆがめることは、大学入試としては自己矛盾である。そして、コミュニケ―ション力を理由としたことも拙かったであろう。

 だが、東京医科大学から始まった一連の騒動(2018年における医学部不正入試問題 - Wikipedia)について、医学界からは擁護意見が出ているのも事実である。この問題は、医師という(かなりハードな)資格に女性がどこまで向き合えるかというポイントと、私学の医学部が昔から高額の寄附金により学生を受け入れてきたという社会的背景の二つが存在する。この両者が結び付き、結果的に男子優遇を恣意的に行うことが行われてきたのではないかと思うが、今回はその問題には踏み込まない。

 私が最も気になっているのは、男子学生の成熟度の低さである。毎度のことながら、統計的なデータでは個人的な経験や印象による考えであることを先に謝罪しておく。実は、就職活動においても同じような経験をしている人が多いのではないだろうか。それは、採用側においてもそうだし、就活をしている学生においても同じである。

 採用試験を行って分かるのは、女子の成績が非常に高いことである。入社試験だけでなく大学時代の成績もそうだし、面接における仕事に対するモチベーションも高く見える。これは、就活において女性の方が不利とというイメージを受けてのことかもしれないが、女性の方が一般的に真面目で努力家な人が多い。個人レベルでは優秀な男子学生いるが、群としてみると女性優位であるのはよくわかる。ただし、同時に下位群も女性が占め、男性陣はその間に挟まれているイメージが強い。

 ところで、企業側が求めるのは試験前や時点の力ではなく採用後の伸びを含む潜在能力である。就活がピークでは全く意味がなく、むしろ入社後にどれだけ能力を伸ばしてくれるかを問いたい訳だ。ただし、現状の一括採用方式では常にギャンブルになる。他の企業において上げた成果を基に判断するのではなく、日本の大学の成績のみではそれは十分に測れない状況がある。どちらにしても現状の採用システムは、採用側も採用される側もあまり得をする感じはしていない。

 一方で、これも私の古い記憶からの経験則でしかないが、入社後に大きく化ける人の割合は、どちらかといえば男性の方が確率としては高い。もちろん女性でも大きく伸びる人はいるし、男性でも成長が期待に届かない人も少なくない。実際、全体で見て期待値を大きく超える成長を見せる人の割合はそれほど高くない。これまた個人的な感想で恐縮だが、概ね10~15%程度ではないだろうか。そして、期待を裏切って伸びないレベルも同程度。その他は最低限そこまでは伸びてほしいというほぼ期待値レベル(この幅の取り方により上記数値は変動する)。結果として、採用時には前述の医学部入試と同じようなバイアスが働きやすい。成績のみで採用すれば採用枠が全て女性で埋まるというようなケースも多々あろう。もっとも、売り手市場の現在ではそんなこと言ってられないというところも多いと想像するが。

 もちろん、女性の成長に向いている業種や職務、それを支援する環境あるいは周囲の理解や本人の意識など、女性の成長を阻害している理由が数多くあるのも承知している。それらを改善していくことにより差違は徐々に解消される面もあろう。実際、日本以外の国で女性の管理職が多いところはいくらでもあり、逆に考えれば女性の伸び代が大きいと考えることもできる。

 ただ、私が気にしているのは就活時、あるいは大学受験時の男子・男性の精神的な幼さについてである。女子に比べ、男子の方が平均的に能力が劣っているのであれば、こうした差違が出ることも致し方ないであろう。実際、それに近い意見を聞いたこともある。性差により肉体的な能力は平均すると男性の方が高い。その分頭脳労働として女性が優れていることがあってもおかしくない。ただ、私の経験では仕事に関する能力を考えるとき、女性と男性の間にはそれほど差がないと思っている(個人差は除く)。ただ上述の通り女性の意識は二極化しており、上のキャリアを目指す女性の成績は良く、そうでない女性の成績は低い。統計的な結果は男性とあまり差違が無くなる。そして最大の論点は、そのトップランナーに位置する女性が多いということ。

 すなわち、その時点における意識の違いがこうした結果に表れているという仮設である。学生時代は女性の方が自分の将来に対する意識が高く、逆に社会人となってからは男性の方が女性より高い意識を持つケースが多いか、あるいは妥協しなくなる。これは私の感覚から来る仮説なので、なんら証明されているわけではない。ただ、成人するまで(特に低年齢時には特に)は女性の方が精神的成熟度が高いというイメージがあるものの、研究において性差は認められない(社会的成熟度の発達と形成要因に関する研究)とされるものもある。

 幼い頃は精神的な成熟度より、女性の方が男性よりも弁が立つというのも関係しているかもしれない。年齢が進めば知識や論を持って反論可能だが、子供時代には会話の勢いで押されやすい。特に感情的な議論となる時、女性の方がそれを得意としているようにも思う(これも個人差が激しいので絶対的ではない)。だが、今最も気にしているのは意欲の部分であり、学生時代の意欲・目的意識が女性の方が高いのではないかということ。もちろん、近年の女性の意識向上がこの現状を導いているとすれば、時間はかかるが徐々に就職後の状況も変化していくだろう。

 男性の草食化が謳われるようになって久しいが、強い男性像が社会的な地位を失ってきたことが一つの理由に思えて仕方がない。前時代的な父長制へのノスタルジーを言いたいのではなく、男性のアグレッシブさが仕事で発揮されても評価されにくい状況。その必要性を感じ取れない状況。むしろ優しさが賞賛される環境。それが男性の精神的な成熟度を阻んでいるのではないかということ。

 ハードボイルド指向やマッチョ賞賛ではないが、男子学生のアグレッシブさがもう少し評価されるようになってほしいと最近考えている。社会がわざとそれを阻んでいる様にも感じられるのは、少々考え過ぎなのだろうか。

研究アニマルスピリッツ

 日本の研究力低下が、様々なところで話題となっている。

diamond.jp

 現実に、世界大学ランキングや論文数の結果が芳しくないのは言うまでもないし、AI等の分野ではアメリカや中国に大きく後れを取っているとも言われる。文部科学省からの運営費交付金が毎年1%ずつ減少しているのは事実だが、同時に教員定年を65歳付近に延長したことが現在の大学経営に大きく影響を与えている。結果として、全国の多くの国公立大学不本意ながらも経費削減(および外部資金獲得)に邁進させられている。運営経費に給与が占める割合はかなり高いが、よほどのことが無い限り任期無し教員の首を切れず、結果的に採用を控えることが基本的路線となる。その結果、若手教員の採用が控えられたり、余裕がないがために慎重になって期限付き雇用しか行えないケースが増加していた。確かに、ポスドク等若手研究者が不安定な身分に置かれていることも多いが、それについても随分前から問題とされている。

 では、現時点で大学への就職が有り得ないくらい困難かと言えば、必ずしもそうとは思わない。特に大学教員の年齢構成が腰高の壺になっている(60代が多い)こともあり、今後は人件費削減のため若手教員しか採用できないところも多くなる。分野や大学の立地により差はあるだろうが、私が知る地方国立大学法人のとある分野では任期無し教員の競争率が概ね10倍強程度である。これを厳しいとするか緩いと見るかは人により違うが、私が思うにそれほど厳しい状況にはない。一定の研究成果を上げている人であれば、むしろ大学の方からぜひ来てほしいと言うイメージすらある(首都圏や大都市圏では違うだろうが)。大学が望むレベルに達しているかどうかが関門だ。その上で、これも私の大雑把な感覚だが概ね2/3程度の応募者は書類審査で希望するレベルに達していない。

 大学がどのような人材を望むのかを見極めるのは容易でないが、基本的には研究成果を継続的にあげられるような人材であるかが最初にあり、続いて募集区分に対する分野の適合性、職階と年齢の適合性、そして教育並びに地域貢献や他者とのコミュニケーションが取れそうかを問われることが多い。他にも多くの評価ポイントはあるが、研究成果が最大であるのは言うまでもない。実際、現在の大学教員は本当に雑多な事を期待される。特に地方国立大学法人の場合は、研究のみが突出して他が駄目という人物よりも、総合的に広い能力を期待する傾向が高いように感じている。それは少ない人員で幅広い分野をカバーし運営するためにやむを得ない面もあり、現実にオールラウンダーを高く評価する人事システムが広がりつつある。

 さて教員採用の話を先に書いたが、ここで話題にしたいのは既存教員のチャレンジ精神についてである。私が知る国立大学法人だけではないだろうが、どんな組織においても能力が高く次々と成果を上げる教員と、最低限の義務を果たすだけに見える教員グループが存在する。そして主観がかなり入っているが、研究成果を上げる教員と学生の教育満足度が高い教員が一致することは多い。そこに掛ける意気込みと努力、そして手間の差なのではないかと思う。同じくテニュアを持っていても教員の質は千差万別である。大学教員であれば知識が深く幅広いのは当然だが、その先をどれだけ追い求めるのかと言う心構えの差があると感じる。研究分野そのものは大海原のように広く、ニッチを探せば課題はどこにでもいくらでも転がっている。だから、あえて大きな目標を立て困難な挑戦をするかどうかは教員次第と言う訳だ。

 もちろん、大学に所属しているのだからいずれの教員も何らかの研究には取り組んでいる。異分野から見れば趣味にしか見えないものもあれば、壮大なテーマを掲げつつもずっと結果を出せない(出さない?)ケースもある。私が思うに、研究のきっかけや取り組む内容は何であっても良い。そこから得られたものをどのように広げ、より深い探求の道に進めていくのかの志が問われる。諦めたとまでは言えなくとも、チャレンジよりも安全策を取る教員は少なくない。それは立場が安定しているが故の保身かもしれないし、踏み出す勇気を持たないだけなのかもしれない。

 今、日本の大学に問われているのはアニマルスピリッツを有した教員を増やすことではないかと思う。成果主義オンリーで大学を計る意見には与したくない。研究は、偶然から展開されていくことが多々ある。とりあえず試す。もちろん闇雲に向かえばいい訳ではないが、全てを事前に想定できることは少ない。粘り強く取り組むことが何より望ましい。

 こうした研究に対するアニマルスピリッツは、研究成果以外の分野においても良い影響を与えるように感じている。まずは内にこもらず外に打って出る。失敗しても負けずに継続できる強さを獲得できる。そして、自分の行っている研究の意味と意義を多くの人に伝え続けなければならない試練を得て、プレゼン能力が向上する。そして何よりもそのチャレンジや姿勢を見ている学生に良い教育効果を与える。大学における教育は基礎知識を与えることだけでなく、何より物事に取り組み姿勢や方法論、考え方を獲得することにある。

 だが残念ながら、今の大学ではそのようなアニマルスピリッツは積極的に評価されないし、そもそも内面的なそれを容易に評価できるはずもない。特に短期的にはそれを全く判断できないことが最大の問題である。長期的に見ればアニマルスピリッツは人物と行動から雰囲気として判断し得る。だが、慌てて判断しようとすれば誇大妄想狂や詐欺師が高評価を受けるかねないのは怖ろしくもある。そもそも公平であろうとする大学の人事制度があり、努力しても成果に応じた評価を必ずしも反映されない現状は、守りに入る教員を生み出す素地となる。安定を否定するつもりはないが、あまりに保守的になり過ぎる状況があるとすれば、その精神を喚起することは重要であろう。

 こうした問題は大学に限らず、日本社会全体に広がっていると思う。チャレンジに対する評価が低ければ、モチベーションを何により維持すればよいのか。チャレンジしないことにペナルティを与える方向性も考えられる。だが、できれば前向きな雰囲気を醸成していくことを考えたい。要するに、停滞しがちな教員のマインドを変え、モチベーションを維持していく手当しかない。それを自分で律することができなければ、組織的に対応する必要が生じる。

 大学教員とは本当に恵まれた仕事であり、安定した報酬、研究の自由さ、その上に立場が地域における識者のポジションを与えてくれる。呼ばれた委員会などではあたかも専門家のように扱われるが、実はそれ以上に知識の深い民間人も少なからず存在したりする。だが、自治体などは自分たちの論理で大学教員を厚遇する。探す手間が必要なく、質が低すぎることがない。ベストではなくベター、そして社会的に説明が付きやすいと言う理由。もちろん本当の意味で必要とされる教員も少なくはないが、お飾りのケースも多数あるのはなんとなく知られているだろう。それが下手な自尊心を生み、あるいはチャレンジしない言い訳になっているとすれば、あまり褒められた話ではない。

 ところで、例えば大学教授とはどの程度希少なのであろうか。平成30年度学校基本調査(学校基本調査 平成30年度(速報) 高等教育機関 学校調査 大学・大学院 | ファイルから探す | 統計データを探す | 政府統計の総合窓口)によれば、2018年時点の学長・副学長・教授を合わせて71,918人とされる。この数を多いと感じるか少ないと思うか。私がこの数字を初めて見た時の感想は、予想以上に多いなと感じたものである。

 次に比較のため非常に乱暴な略算をしてみよう。大企業のうちで平均年収が700万を超える企業は約800社ある(【2018年12月版】平均年収が高い企業ランキング!全国 全業界 日本のサラリーマン P8)。これは大学数768とほぼ同じであり、また大企業に分類される総企業数約1.2万社から考えると6.7%にあたる。また大企業従業員数は中小企業庁の統計により約1,229万人(http://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/chushoKigyouZentai9wari.pdf)とされ、両者から平均年収700万以上の従業員数はおおよそ82万人になる(多くの異論もあろうが、丸めて100万人を仮に一流企業の従業員数と仮定する)。次に大企業の代表としてトヨタにおける職位別人数を計算してみる。従業員総数が約7万人(単体ベース)、基幹職3級(課長級)が約7300人、同2級(次長級)は約1700人、同1級(部長級)は約480人とされていた(社員30万人の最強企業トヨタで「偉くなる人」の共通点(井上 久男) | 現代ビジネス | 講談社(1/6))。課長以上の立場を得られるのが13.5%(役員除く)で、先ほど仮定した一流企業従業員数にこの割合を掛けると課長級以上が13.5万人となる。教授上の数である約7.2万と比較すると、どうやら一流企業の課長と次長の間くらいが大雑把な数字による大学教授の社会的な価値に見える。もちろんこんな数字遊びが何も明示しないのは承知の上だが、それでも体感的にも年収からも、この比較はそれなりに妥当なレベルを示しているように感じている。

 ただ、ここで問いたいのは数字の正確性ではない。大学教授は基本的に大学の研究職員の最上位に位置する。学長や副学長は基本的に研究から離れ経営に携わるため、大学では教授が職階上の到達点である。その上が無い故に、能力や成果を見ても相当に幅広く玉石混交の教授が存在し得る。そして平均的な価値は一流企業の課長+α。さて、そのレベルで社会的にどれだけ価値を自負できるのか。

 なぜこのような数を出すのか。それは教授の中に職階上の到達点であるが故に、上がほとんど無いがために、挑戦心を忘れ去ったような人がいることにある。本当は、昇進のプレッシャーから解き放たれた教授の方が自由に研究や教育に邁進できるはずなのにである。世間から見れば大学教授の方が一流企業の課長よりも随分偉いように見えるだろう。しかし、私は両者にはそれほど大きな差はなく、担う業務が違うだけに感じられる。自治体で考えても、概ね本部の課長あるいは部長レベルが相当するだろう。世間のイメージほど大学教授は希少なで貴重な職ではない。

 大学改革には難しい点が多くあるのは否定しない。また、全ての研究者がアニマルスピリッツを持たなければならないと断言するつもりもない。ただ、論文数等により評価するよりはこうした精神を評価できないかと思う。また、最上位職であることが問題を誘発しているそすれば、教授にも平教授、上級教授(あるいは一級教授、二級教授)くらいの差別化を設けても良いのではないだろうか。ただしここで書いてきたことは、信念と勇気をもって研究に邁進している多くの研究者には全く必要のない、むしろ余計なことであったりもするのも理解している。

 留学生を増やすことや、海外発表を増加させること、IFの高い論文誌に投稿すること、その他にも数多くの研究振興のための意見が出ている。研究資金が十分ではないという面もある。だが、何よりも研究者のアニマルスピリッツを喚起させることを目指してほしい。

文化摩擦

 多くの人たちは漠然とした願いではあるものの、世界中の人々が仲良く出来ればよいと考えていると思う。私自身も戦争なんてない方が良いと考えるし、国家間の争いは経済的なものや文化的なものも含めて少ない方が良いと思う。だが、現実には世界中で様々な摩擦が満ち溢れている。それが問題だと唱える人は数多くおり、解消すべきだと声を上げる人もいる。可能であれば実現してほしいと思うが、果たしてそれは可能な事なのだろうか。

 少なくとも、世界的に見れば人種的な差違のかなり小さな日本であっても、人種の違いに基づきすらしない諍いが暇なく起きている。何が違うのか。一方の人が横暴なのかもしれないし、あるいはお互いの誤解が広がってしまったのかもしれない。それを仲裁するための機構として、コミュニティがあり、そして警察があり、最終的には裁判がある。この日本に存在しているシステムが全ての不満を解消できるものだとは誰も考えていないだろう。だが、それでもなんとなく社会全体としては我慢できるギリギリの範囲(個別に見ればおかしな点は山ほどある)こそが、社会的に許容できるコストにおける限界である。
 世界的な文化摩擦であっても、完璧にこなそうとすれば信じられないような量のマニュアルを作成すれば、ひょっとすれば対応できるかもしれない。宗教的な争いから、歴史的な争いまで。物事を完璧に整理できるという前提に立った話ではあるが。だが、そのためのコストが社会生活を大幅に圧迫するとすれば、そんな方策は誰にも受け入れられないであろう。

 「ポリティカルコレクトネス」という言葉もかなりの社会的な認知を受けたと思うが、それが実現できた方が良いのは間違いない。だが、そのために社会全体が支払うコストが許容されるのであればという前提に立っての話である。現実の社会を見ると、誰もそうした社会が支払うコストの話をせずに、原理原則論のみを主張しているように見える。それを私は「政治的原理主義」と呼ぶべきだと思う。本来、政治は原理よりもできる限り多くの人が許容できる現実的な落としどころを探すことが仕事だと考えるが、世の中を見ると政治家と呼ぶよりは原理主義者が跋扈しているのが悲しい限りだ。特に、マスコミ関係にそうした考えを持つ人が多いように思う。彼らの多く(あるいはメディアに登場する一部かも知れないが)は自分を異なる場所において社会を論評しているようだ。
 「誰にも優しい社会は、誰もが阻害された社会」この言葉をどこで聞いたかは忘れたが、優しいというのはある意味の優遇措置である。メリハリと言っても良い。それを全ての人に振り撒けば、その状態が次のスタンダードになる。すなわち、それ以上の優遇をしなければ優しさではなくなってしまう。野麦峠時代の女工を思い起こさせるような話ではあるが、優しさとは相対的な指標である。

 さて、異なる民族の融和は概念としては望ましい。だが、本当の意味においてそれは可能なのか。文化の違いは人々の思考や生活習慣の隅々にまで染み付いている。それを変えることは多くのストレスを与えるのは知っている人も多いだろう。異文化の融合とは、基本的にストレスを多く生み出す場である。さて、そのストレスを引き受けるのは誰であるべきなのか。文化摩擦はその問題を抜きには語れない。
 優しい人たちはマジョリティが負うべきだという。一方で、現実はマイノリティがそれを負っている面が大きい。そしてマイノリティを救うべきだという声が上がる。だが、本当は誰も負いたくはない。私は将来的にはこの問題を技術が解決できるのではないかと考えている。両者の負うストレスの落としどころを見つける技術ができれば、それを基準として文化的な問題を解決していく道筋も見えるのではないか。いや、そうなってほしいと願いたい。

 現在世界中で起こっている多くの民族的な摩擦は、確かに経済的な面もあるし、それ以外にも複雑に絡み合っているところもあるだろう。だが、多くの場合には相手の文化を十分知るほどの労力をかけられないことにある。あるいはそれを知ろうともしないこと、意図的・政策的に無h氏して自分を有利にしようとしていることがある。
 韓国や中国と日本のトラブルを見るたびに、お互いの価値観や文化が違うのだから、それを自分の価値観で見て落としどころを付けるのはできるはずもないと感じる。それをもって、日本が悪いとか評論する人の感覚も正直分からない。なるべくバランスを持ってみようと考えているが、私自身日本人としてあるいは今までの経験や形成された性格によるバイアスからは逃げられないのも知っている。

 中国や韓国の常識では、中途半端な融和や妥協と言う概念は日本と異なり常識的なものではない。「勝つか負けるか」しか考えない人たちがいたとして、日本人はどのような対応をすべきなのか。それを知らずに、自分だけの価値観や狭い範囲の常識でものを見ても、答えなどは見えてはこない。
 それほどに、文化の違いや価値観の違いと言うものは難しいものなのかもしれない。だとすれば、世界中に多くの国があるという現実は、実のところ人類として程よい落としどころを見つけ出しているのじゃないかと感じたりもするのである。世界は、統合していくのではなく細分化していく方が望ましい。
 もちろん、これには様々な側面がある。社会を形成するために必要な規模があるし、国際的な力を発揮するために必要な人口規模もある。一方で経済面で言えばもはや世界はほとんど一体と言っても良い側面もあるだろうし、情報に関してもそうである。少なくとも、世界中の多くの人たちがスマホを持ち、情報を発信している。私たちはお金さえあれば世界中の珍品を手に入れることも可能だ。

 経済や流通では統合し、文化では差違を際立たせる。そもそも、オリンピックやワールドカップでは自国の応援に誰もが熱狂している。差違というよりも、アイデンティティは人々に取って必要であり、それはむしろあった方が良い。その前提に立って、アイデンティティを守るための文化交流とは何なのかを考えることが重要となろう。時には、必要以上に交じり合わないことも選択肢となる。文化の距離感を大切にすること。中華街と呼ばれる場所が世界中にあるが、それは一つの在り様を表しているのかもしれない。
 文化を考えるとき、話し合っても分かり合えないことの方がずっと多い。それを知った上で相手のことを尊重し、そして必要な距離を取る。それが文化摩擦に対する最も良い態度ではないだろうか。厳しい態度も必ず必要になるのである。

 あと一つ、人類が停滞するのではなく今後も変わり続けていくためには、実は異文化の衝突によるストレスが非常に大きな役割を担っているかもしれないと考えることもある。閉鎖するのではなく、覚悟を決め、むしろ楽しむ。その意識が広がればいいなと思う。

BTS問題と日本の立ち位置

 何やら、K-POPアーチストの行動が話題となっている模様。正直、行動や態度に品や敬意が感じられない部分もあるが、個人的にはそのアーチストに興味はないし、その行動に関しても同様である。日本でのマーケティングを考えるならば、早々に謝罪しても良かったとなんとなく思う面もあるが、韓国でのバッシングの可能性を考えるとそれも難しいのであろう。面倒くさい国だなと思う。

 現在、日本のネット界隈が騒がしいが、直接の関わりはないものの徴用工問題も含めた韓国に対する不信感がここぞとばかりに広がって影響が主因であろう。一アーチ―ストとして日本を貶めるようなことを明言しているのであればともかく、彼らは多くの大人たち(事務所・スタイリスト・プロデューサー等)が作り上げている偶像であり、大して考えているものではないだろう。アーチストとしてその問題を真摯に考え、配慮する方が望ましいと思うが、それ以上に多くの日本人が感じている苛立ちは、結局韓国という国の認識や態度に対する反感からきている。すなわち、現状はBTSが手ごろなバッシング対象となったに過ぎない。繰り返し言うが、彼らの態度が良いといううつもりはないが、問題の核心はそこにはない。
 日本の言論界で、未だに日本はもっと大人になるべきと言う声もあるようだが、これまでが大人過ぎて日本が言論的に不利な立場に追い込まれ過ぎているからこそ出てきている現象である。そのはけ口として、今回丁度良い素材として表面化したのがBTS防弾少年団)というアーチストなのだ。

 例えば、もはや一人当たりGDP等も日本(25位)と韓国(29位)の差はほとんどない(http://ecodb.net/ranking/imf_ngdpdpc.html)。こうした数値が実態を的確に表しているかなど評価方法の正しさに議論の余地があるかもしれないが、それでもほとんど対等の状況に近づいていると考えるべきであろう。とすれば、日本が韓国に譲歩したり余裕の態度で韓国の我儘を許容する理由はない。むしろ対等の関係だからこそ言うべきことは言う必要があるのではないかと思うのである。
 概ね韓国に優しい主張をする人たちの感覚は、未だ日本が韓国に経済面で圧倒的な差をつけていた時のままではないかと私は思う。その傾向は特にマスコミ界隈に強いように思う。本人たちにその意識はないかもしれないが、これは心理的な優越感を理由としている(特に国同士の比較ではなく、個人的な立ち位置を棚に上げている状況だと考える)。だからこそ、「韓国に負けるのが悔しいから」とか「迫られる不安があるから」日本人が韓国に対して攻撃的になっていると言ったりするのであろう。日本という国は韓国の追い上げられて焦り醜態を見せているが、自分自身は十分道徳的あるいは社会的・経済的に優位な位置にいるため上から目線でそれを諭していると言った感じだろうか。まったく馬鹿らしい。

 確かに、日本の家電メーカーがサムソンに収益等で現時点大きく負けているのは事実だし、品質等の良し悪しはともかくとして世界的な競争で日本が韓国の後塵を拝している場面も事実である。日本の製品が、世界的に求められるコストパフォーマンスに合っていないのも、そろそろ日本人は痛感し始めている。あるいは真面目にやっていれはいつかは評価されるというのが間違いであるというのも同様。的確なアピール、もしくは自己にとって有利なアピールを効果的に行う能力は、間違いなく日本より韓国の方が上手である。このあたりを上手くなりたいとは私も思わないが、そういう国民的メンタリティが現状を導いた側面は少なくあるまい。

 冷静に見れば、韓国はそれなりに大きな規模を持ち、高い技術力を有し、そしてプロパガンダの非常にうまい厄介な競争相手国である。数多くの日本からの技術援助が入ったこともあり、産業構成が日本に近くほとんど被っている。日本もまたアメリカから同じように技術供与を受け、アメリカは日本に敵わず産業構造を変化させてしまった。今、トランプが若干の先祖返り的な抵抗を続けているが、正直どれだけ戻るものかは疑問が残る。英語とドルと言う最終兵器有する彼らにとっては、風下産業よりも風上産業の方がずっと効率的なのだから。
 また、日本も現状では最終製品よりは中間部品生産や製造機械生産に主力部品を移している面もある。これらは、韓国や中国には同じような組立産業では敵わないという厳然たる事実からきている結論の一つであろう。ブランド化をするか、もしくは基軸となる技術を握ってしまうこと。これがアジア諸国から追い上げられる日本の生き残る道の一つであるのは間違いない。

 日本の世界的な影響力が、新興国の台頭やバブル崩壊以降の経済的低迷、および国家として生きていくための明確な道筋が見えにくくなっているからこそ低下しているのは厳然たる事実である。円取引のシェアも下がり、国際的な発言権も以前より間違いなく低下しているだろう。一方で、キャッチアップ国家である韓国が日本にしhかづいているのも事実だ(追いつけると言っているわけではないが)。日本人として抜かれるつもりもないし、日本は再び輝きを取り戻せる能力を秘めていると確信しているが、少なくとも現時点ではあまり好調でない。だから、仮に韓国の文化が日本に深く浸透することがあっても、国際的な力関係では当然のことと考えることもできよう。国民感情や日本人のメンタリティから、携帯や自動車など日本では韓国製品はそれほどのシェアを獲得できていない。だが、それが日本を国際的に優位な状況に置くことになる訳ではないのは、誰もが理解できるだろう。

 私から見れば、嫌韓も擁護論も双方ともに日本の方が優位であるという観点に立脚した意見に見える。日本の国際的に高い(?)地位にいるのに韓国に不当に辱められている。あるいはそう言う地位にいるからこそ、韓国にはもっと大人の態度で接しなければならない。これらは、実はほぼ同じメンタリティではないかと思えるのだ。例えば、韓国が平和賞を除くノーベル賞を獲得していないことを揶揄する文章がネット上ではよく見られる。だが、日本も将来的にはそれほど楽観的になれる状況にはないし、国際的に活躍する優秀な韓国人研究者が今後受賞する可能性なんていくらでもある。そして、逆に言えば十分に自信をつけた韓国を今の日本が庇護する必要性もないのである。それはいずれも事実かも知れないが、感情に由来した判断ややり取りである。
 正々堂々と競争すればよいのだから、韓国が徴用工のように不当な主張するのであれば、そこには明確な制裁を加えればよいではないか。もはや両国はほとんど同等でいいではないか。心理的なマウンティングなど、それを競争するほど馬鹿らしい無駄なことはない。仮にそれを韓国から仕掛けられていたとしても。そして、不当な行動には断固として対応すればよい。それだけのことである。

 正直、韓国と言う国もつ日本に対する執着心は面倒だし不当なものが多い。概ね感情的なやり取りが中心だ。それに同じように感情的に返すのは良くない。その感情的と言うのは批判だけでなく・おとなな態度を取ろうというものも同じである。だからこそ、現実的に、理性的に、是是非で対するのが正しいし、安易に甘く接する必要も全くない。相手と同様に感情的になるのも馬鹿らしいし、そこに配慮するのもあほらしく疲れる。笑って厳しく接すればよいだけ。韓国のものでも良いものは良い、悪いものは悪い。ただ、それだけのことである。

中国の苦境

 ブルームバーグにこの様な記事が出てきた(中国の住宅の5軒に1軒は空き家、全体で5000万戸余り:https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-11-09/PHWXGI6TTDSF01)。以前より「鬼城(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%9F%8E_(%E5%9C%B0%E7%90%86%E5%AD%A6))」と呼ばれる人の住まない集合団地や都市の話は話題に上ってきたが、中国政府の力技による延命策は不動産バブル崩壊を食い止めてきた。だが、こうした延命策は日本のバブル崩壊時でもあったように、多くの場合において傷口を拡大させていく。昨年にその限界が来た(中国の不動産バブル崩壊)のではないかと感じここでも触れたことがあったが、正直私の見込み違いでその時点ではまだ崩壊には至っていなかった。今後も中国政府のなりふり構わない方策により延命する可能性が無い訳ではないが、そろそろ限界が近づいているのではないかと思う。
 日本の空き家率も既に15%を超えており平成33年ごろには30%を超えるという推計も出されているが、日本の場合には地方における人口減少の影響が大きい。また、都市部の空き家率は少なくとも現時点ではそこまで高くなく、多くの場合において空き家問題は地方における話題である。もちろんそれを看過できるものではないが、国家全体の問題とすれば深刻さの度合いは日本よりも中国の方がずっと大きい。中国も現時点では日本に10〜20年遅れているが、一人っ子政策のつけとしての少子化に伴う歪な人口構成が生み出す高齢化は今後急速に目に見えてくることになる。日本のバブル崩壊における失敗に学んだ中国であるが、高齢化社会に対する取り組みには日本の失敗と言うケーススタディが無かったが故に、おそらく大きな問題となって現れるだろう。

 更に、昨年度より対立が目に見えるようになってきたアメリカと中国との覇権をかけた状況は、一帯一路に対する世界的な反発も徐々に広がりつつあり中国にとっては必ずしも良い方向には動いていない。少なくとも、ドルの地位を脅かすレベルまで中国は元の価値を築き上げられていないので、経済戦争を行えば言うまでもなく中国の方が分が悪い。もちろん民主主義による様々な縛りを受けたアメリカと比較すれば、共産党一党独裁を資本主義の中に緻密に組み入れてきた中国の方がルールに縛られない分だけ有利な面もあろう。だが、ゲリラ的・局所的な経済戦争やプロパガンダでは中国が有利になる場面もあっても、トータルとしての戦いではアメリカの方が間違いなく強い。アメリカが気にするのは、中国の混乱が招くであろう世界経済の落ち込みがアメリカの景気に大きなダメージを与えないようなコントロールなのだから。
 もちろんアメリカも盤石ではない。現時点でアメリカの景気が良いのは言うまでもないが、それでも多くの国民の不満を解消できる状況になく、その結果が今回の中間選挙にも見事に表れている。グローバル化した経済では中国の没落を諸手を挙げて喜べるものではないのである。アメリカの狙いは市場としての中国を確保しながらも、世界的な中国の影響得力を如何に低下させるかが課題なのだ。

 どちらにしても、トランプ政権成立後に一気に進んだ世界的な株高はそろそろ方向が変わりそうである。その引き金を中国が引くことになるのか、あるいはリーマンショック前以上に積み上がったジャンク債市場の崩壊がきっかけとなるか、はたまた不安定になりつつある中東の状況が関係するのかはわからない。ただ、これまで全てが上手く回っていた世界経済ではあるが、櫛の歯が欠けるように徐々に不協和音が広がっていくような気がしてならないでいる。少なくとも、現状で中国が打てる手は大きく状況を覆せるものではないだろう。リーマンショック後の無理なパッチワークの代償を今後支払っていくことになるだろうが、それに今の共産党政権は耐えきれないように思う。だからこそ、今後目くらましに何をしてくるかを注目していく必要があると思う。

戦場ジャーナリスト

 安田氏の会見が行われたが、私自身直接見ていないものの伝え聞く内容からは、彼の活動の意義を見出せる強いものは感じられなかった。ただこの問題は、彼個人に卑小化できる部分と、別の大きな構図で見るべき部分があるように感じている。特に今回目立ったのは、フライング気味にマスコミ関係者から漏れ出た擁護論ではないだろうか。自己責任論に反発するように繰り広げられた展開は、先ほどの大きな構図、特にジャーナリストの在り様について考える良いきっかけではないかと思う。

 権力の暴走を抑えるためのジャーナリズムについては、私もその必要性を認めている。戦場ジャーナリストは、戦争の悲惨さや暴走する権力の在り様、そして大きな権力ではなくとも無秩序を拡大させるような理念の存在を明らかにしてくれる。隠された秘密、権力者が隠したい問題を社会に問うことの意義は十分に認める。私たちが知らないところで自分たちの生存を脅かすような行為が進展しているのを看過できない。
 だが、一方でジャーナリズムは商行為でもある。誰かのために命をかけている振りをしても、あるいはそのような目的を語ったとしても、あくまで成功時の報酬はジャーナリストが一手に獲得する。誰かにとって不都合な真実を暴き、その情報を売るのが商売である。スクープを得ることはその業界では賞賛され、時には世界を感動させることもあるだろう。しかし、それはあくまで派生的な結果であって主目的ではない。

 私はインターネットやSNSの急速な進展により、現在ジャーナリストの地位がかなり脅かされる状況になっていると考えている。特に、ハードボイルドなイメージで想像できるような(戦場もそうだし、政治系もそうだろう)ケースは内部リークが容易になっただけにより難しい。社会系など、問題が整理されていなかったものを、再整理して問題として顕在化させる方向は、まだまだフィールドがふさがっているとは思わないが、より脚光を浴びるような舞台はどんどんと狭く。そして深くなっているのではないだろうか。少し足を踏み込んで得られる程度の情報は、既に当事者たちが様々な形で、しかも無料で情報発信をしている。とすれば、ジャーナリストと呼ばれる人たちはよりディープなところまで踏み込んで行かなければならない。
 一方メディアはあくまで企業であり、雇用者の安全を守らなければならない責任を負う。日本のテレビ等で偉そうにジャーナリズムを語る人たちは、決して本当のジャーナリストが向かう場所には赴かない。むしろ、多くの得られた情報を加工して報道する情報商社業に勤しんでいる。そして、その使い走りとしてフリーのジャーナリストたちが、情報を大手メディアに売って歩いている。

 フリーの彼らは大きな資本を持っていない。すなわち、多くの経験を積むための投資も、十分な準備をするための資金も有していない。精々持っているのはチャレンジ精神と、幾ばくかの知恵である。それでも経験を積むうちに能力の高いジャーナリストになっている人も少なからずいるだろう。ただ、それと同じくらい以上に能力が不足しているにも関わらず、身の丈を超えた場所に飛び込む無謀さを兼ね備えた人たちもいる。私は今回の安田氏もそれに近いのではないかと想像している。
 彼らが無謀にならざるを得ないのは、フリーであるが故の一攫千金(実際には知名度)を狙わなければ報われない状況があるように思う。そして、状況を無意識的ではあろうが間接的に後押ししているのが、日本の大手メディアとそこに在籍している自称ジャーナリストたちだろう。こうした後ろめたい気持ちを隠すためにも、彼らは安田氏を守らなければならなかったと考えるのはおかしな話だろうか。

 だが、ジャーナリズムを取り巻く状況は加速度的な変わりつつある。日本では定着できなかったが、韓国発のオーマイニュース等一般人が報道に関わる(彼らもジャーナリストと言ってよいではないか)仕組みがかなり前から試みられている。メディアそのものの信頼性がネットに取って代わられる状況は現在も進展中だし、新聞はもはや情報産業から実質的に不動産業へと移行しつつある。
 そこで糧を得ているジャーナリストたちを取り巻く状況も厳しさを増しているのは間違いなかろう。今はまだジャーナリストとしての活動を出来ているかもしれないが、実はメディアに登場するジャーナリストたちは多くの場合何かの専門家ですらない。すなわち、多くの情報を正しく分析出来ているとは限らない(むしろ自分の主義主張に合わせて加工すらしている)。ネットでは、様々な専門家たちがより正確な分析を繰り広げており、自称ジャーナリストたちの分析はそれには遠く及ばない。

 ジャーナリズムは(1)情報入手、(2)情報分析・整理、(3)情報発信により成立すると考えるが、(1)の土台が崩れつつあり、(2)は専門家に遠く及ばず、(3)のみを現在死守している状況にある。そして(3)の立場を理由に、(1)と(2)をあたかも自己の能力で行えるように虚飾すらすることもある。
 もちろん、専門家は自分の分野には強くとも総合的な判断能力には欠けることも多い。それを補うのが評論家と呼ばれる人たちになるが、ジャーナリストはその立場を得ようとしている感じが強い。しかし、そこまでの能力を持つジャーナリストがどっれだけいるのであろうか。
 結局、安全な日本国内で叩いても問題ない政府への報道を、重箱の隅をつついて探し回っているのが現状かもしれない。そういう意味において私は能力不足だったかもしれないが、安田氏の行為は国内でぬくぬくとしている自称ジャーナリストやメディア関係者よりはマシではないかと思う。そして、上から目線で彼を擁護しているふりをする姿勢に反感を感じている。

 メディア、そしてジャーナリズムは、こうした意見に対してどのような反応を見せてくれるのであろうか。兎に角、不勉強な記者が尊大な態度を取っていることに対して、国民は「そんな特権階級を与えたつもりはないぞ」と感じていることを内省してもらいたいと思う。
 ジャーナリストは一つの商売なのだ。

徴用工問題

 この件については既に外務省も対策室を設置したらしい(https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page4_004458.html)が、韓国の非常識なというか法治国家とは思えぬ行動は、多くの日本人が感じているであろう。昨日も、出張中の電車の中で高校生たちが韓国の対応の非常識さを話し合っている声が聞こえた。仮にリベラル系の新聞や言論人たちが火消をしようとしても、そうした認識が広がっていくのを押しとどめることはおそらくできないと私は思う。今まで以上に嫌韓の風潮は広がっていくであろうことは間違いない。
 そもそも両成敗的な意見を出すメディアは、それぞれが問題を生じさせている程度(割合)について全く述べることが無い。大も小もひっくるめて対等と扱うからこそ、それに反発する人が増えていくのである。そもそも、徴用工についてはきちんと給与が支払われていた証拠が数多く残っている(https://www.zakzak.co.jp/soc/news/181031/soc1810310014-n1.html)。一部にそれが十分なされていなかったものがあったとしても、その賠償責任が韓国政府にあるのは日韓基本条約にあるとおりである。

 だが、ネット上で勢いに任せて書かれているように国家同士の断交をすれば良いかと言えば、物事はそう単純ではあるまい。それにより韓国は間違いなくダメージを受けるであろうが、それでも工業製品に関する部品は日本でなくても手に入れられる。また、政治的な断絶があったとしても人の交流を押しとどめるのは容易ではなく、むしろスパイ行為などで露骨に奪いに来ることにもなるだろう。何にしろ、日本にはスパイを逮捕する効果的な法律はないのだから。もちろん、嵩にかかって日本ディスカウント運動にこれまで以上に精を出すであろう。
 中国には刃向わず日本にばかり難癖を付けるのは、基本的に日本が事なかれ主義で譲歩し続けて来たからという指摘は、それ程間違いではない。そこで一気に断交と言うのは韓国に日本の恐ろしさを知らしめるには不十分である。もっと骨の髄まで日本が怖ろしいと知ってもらわなければこれまでの不実に対する割が合わないではないか。表面的にはにこやかに、誠意をもって恐ろしさを感じてもらうべきだと私は思う。

 繰り返しになるが、こうしたことに対する明確な覚悟と対応策を考えずに、単純に嫌だからと脊髄反射的な行動は決してよくないし、韓国民の感情にも火をつけてしまう。背筋から恐ろしさを感じるように、むしろジワジワと韓国に嫌がらせをしていくような、真綿で首を絞めるような制裁を科すべきである。そして、批判を受けても笑顔でしらばっくれるような状況が望ましい(もちろん、並行して正攻法であるICJ:国際司法裁判所への提訴も行うべき)。

 例えば最も大きな効果を与えるのは金融制裁である。ただし、金を出さないのではなくそう匂わせるだけで良い。しかもそれを韓国に向かっていうのではなく、世界に向かって言えばよい。世界的に見れば韓国の金融的後ろ盾は日本であるのは厳然たる事実である。いざというときには日本が助けると世界が見ているからこそ韓国は挑戦的な取り組みが可能なのだ。今後日本の金融機関が韓国に貸し出ししづらくする(できなくはしない)方法については評論家の渡辺哲也氏も触れている(https://twitter.com/daitojimari/status/1057164368629063681)。またビザなし入国の取りやめや、厳格化については評論家の室谷克実氏が触れている(https://www.zakzak.co.jp/soc/news/181030/soc1810300005-n3.html)。理由などはどのようにでもつけられるのだから。
 通貨スワップは、慰安婦問題と徴用工問題で韓国が日本との約束を完全に履行するまで、決して日本が取り合うことはないと、政府筋の情報で流しても良いだろう。それだけでも、経済的な問題が生じた場合のことを考えると、韓国への投資リスクは各段に上昇する。

 政府としては、国民の後押しが何よりも大きな力になる。それなしには、リベラル系メディアによる落としどころや目的不明の屁理屈で行動制限を受けるからである。多くの国民が韓国の理不尽さに声を上げ、政府が強硬な姿勢を取ることに賛同が得られることなしには、日本国政府が安易に動けるものではない。
 韓国は、歴史的事実ではなく自らが作り上げたストーリーによる教育を何十年も行ってきた。大法院(最高裁判所)に判事も政府が任命しており、判決を送らせた罪で逮捕者まで出している。三権独立と言っても実質的に司法を大きな圧力をかけており、現政権がそれを望んでいるのである。
 慰安婦像事件の時も、最終的には日本は大使を戻した。結果として状況は何も変わっていない。要するに韓国のごね得を許しているのである。そろそろ、日本を本当に怒らせると怖いということを知らしめる時ではないだろうか。それなしには、韓国の日本に対する要求は今後もエスカレートしていくであろう。

安田純平氏の自己責任論

 ほぼ10か月ぶりになってしまうが、久しぶりに書いてみたい。日々忙しく、ここに書き込む余裕がなかったことが主な理由だが、それと共に書いてみたいと思える内容にあまり出会わなかったこともあった。

 さて、数日前シリアで長期拘束されていた安田純平氏が開放され、日本に戻ってきた。まずは、無事日本に戻ってこれたことを喜びたい。
 ところで、現在ネットやメディアでは彼の行動に対する自己責任論が騒がしい。私も正直を言えば彼の行動は現時点で結論は出せないが、どちらかと言えば否定的に見ている。ただ、自己責任という言葉が先走っている状況には違和感も感じている。そのあたりを自分なりに納得する上で、少し考え方を整理してみたい。

 まずは状況を整理しよう。ネット上で彼を批判する人たちの理由は概ねこんなところであろう。

・かつて4度も拘束された経験を持つ
・日本政府から何度も渡航に対する抑止を受けたにも関わらず、それを振り切って行った
・日本政府には助けられたくないと言った、反政府的なスタンスを表明している
・自己責任という言葉を自分自身使っている

 一方で、彼を擁護する声はマスコミなどに多い。

・ジャーナリズムというものは、政府に行動を制限されるものではない
・現地に潜り込む人がいなければ、情報が世界に届かない
・国が救出するのは当然であり、それで批判を受けるのはおかしい

 その他、英雄とたたえるべきとか、真偽不明の自作自演説なども出ているが、ここで取り上げるつもりはない。そのうち徐々に状況が見えてくるはずだ。
 まず最初に、双方の言い分はそれぞれ納得できる面もある。ただ、この両者の論点がすれ違っていることに多くの人が気付く。そして、批判者が自己責任という言葉を積極的に用いている訳ではないとも感じる。多くの批判は、彼の稚拙で無謀なチャレンジに対して叱っているであろうと思うのだ。

 もちろん、困難なことに挑むのがジャーナリストだという反応が返ってくることは当然予想できる。だが、ジャーナリストに私達が期待しているのは失敗ではなく成功である。今はネット上で容易に情報アクセスできる時代になった。悲惨な状況は現地にいる人たちからも常に発信され続けている。だからこそ、そこにすら上がってくることのない困難で貴重な情報を得てくることに期待している。
 だが、それは生半可なことでは手に入れられない。自分の命を守りながらの難しい挑戦である。さて、4度も拘束された人にその能力があると考えることはできるであろうか。私はそうは思わない。

 それでも国は彼を助けるための努力をしなければならない。その通りである。テロリストに資金を与えることなく、出来る限りの交渉をする義務がある。だが、そのために支払われた労力に対して、ジャーナリストは何の責任も負わなくて良いのであろうか。
 彼らのチャレンジは確かに尊いかもしれないが、それが成功した時に得られるのは彼らの名声と相応の報酬。今回のように失敗した(拘束された)時に彼らが受けるペナルティは何なのか。私は登山時の遭難と同じように救出にかかった費用の弁済ではないかと思う。もちろんすべての費用というつもりはないが、何らかの責任を負うべきであろう(ちなみに、日本では海難事故はそれに該当されないと言われているようだ)。
 これも未確認情報なので確かではないが、かつての救出時の日本への移送費用等を彼が支払っていないという情報もある。未確認なので、ソース等を知っている人があれば教えてほしい。

 今回、カタール政府が身代金を払ったという未確認情報がある。真偽はまだ不明だし、否定するコメントも出ている様ではあるが、これにより日本政府はカタール政府に負い目を持った可能性がある。さて、その負い目に相当する情報を彼は得ているのであろうか。そんなもの、現地に入らなければ分からないと言う人もいよう。確かに一面ではその通りであろうが、プロであればその程度の情報も事前に手に入れないものなのだろうか。私はそのための下準備は十分になされる必要があるように感じている。
 少なくとも彼のこれまでの言動からはそのような雰囲気が感じ取れない。もちろんこれは憶測と印象論に過ぎず、実際には綿密な計画の下で進められた渡航かも知れないのだが。少なくとも5度目の拘束を受けた事実はそれを否定的に傍証していると私は思う。

 要するに世の中が感じている違和感は、彼のプロとは思えない稚拙さについてではなかろうか。勇気と蛮勇は異なる。浅はかで稚拙な人の自己の利益のための行動を、それでも最初は優しい目で見ることもあるかもしれないが、それが繰り返されれば、しかも周囲の努力や協力に対する感謝の気持ちも表明されなければ、いつまでも許容できなくなるものわからなくはないと思うのだ。

 それを肯定的に評価する大手メディアの人たちがいる。だが、大手メディアの彼らは自らの社員を決してそんなところには投入しない。そして、蛮勇かもしれない戦場ジャーナリストからの情報を、あたかも自分たちが得たように報道するのである。その賞賛は一体誰のためにあるのか。結果的に国民から自分たちに跳ね返るであろう事象を、自分たちジャーナリスム界隈の常識を持って塗りつぶそうとしているようにしか見えない。それは、今まで以上にジャーナリズムに対する不信感を高める方向に出るようにも思うのだが、悪手ではないだろうか。
 あるいはテロリストと話し合えと言う人もいる。論評にも値すると思えないが、不可能な理想論を人に押し付ける行為だと私は感じている。その程度の事を誰も考えずに、そして試そうとしてないと思うのだろうか。あるいはビジネスとして行っている誘拐に話し合いが通じると思っているのであろうか。テロやゲリラは目的の位置を全く別にする非対称戦なのだが。

 私はジャーナリストの果敢なチャレンジそのものを否定するつもりもないし、むしろ誰にもできない行動力を高く評価したいと思う。ただし、それはプロに対してである。周到な準備をして、必要なポイントを見定めて、その上で最後には果敢なチャレンジをする人。そんな人なら応援したいし、仮に拘束されるような悲惨なことがあったとしても否定的に見ることはないだろう。

 今回の議論は、単体の件と相対的な問題のすれ違いが生じている。批判する人たちは単体の個人の行動や資質を批判し、擁護する人は総体論を理由に個人を擁護している。現状知り得た情報からは個人的資質に大いなる疑問を抱いている状況だが、できれば個人的な資質をもっとじっくりと見定めたい。その一端は今後行われるであろう彼の言葉から窺い知れるだろう。

あけましておめでとうございます

 最近は本業に追われる時間が多くなり、すっかりご無沙汰しております。それでも、時間を見つけて感じたこと、気になったことについて何かを書いていきたいと思っています。よろしくお願い申し上げます。

 昨年の2月ごろに株価の上昇に違和感を感じてエントリしたが、現実はその後更なる上昇で私の想定は見事に外れることとなった。まだまだ精進が必要のようだ。世界的な金融緩和によりリーマンショック後の経済復興は成し遂げられたが、その資金は一時資源分野に流れ込み世界的な資源高を生み出したりもした。しかし新興国の発展にも陰りが見え始め、世界をさまよう莫大な資金は行先の模索を続けていたが、それがここに来て狂乱的に株式に向かっているのかもしれない。
 2〜3年前より大きなバブル発生の可能性には触れてきたが、個人的な感覚としての気持ちは今も変わらない。もちろん、私の感覚など何の役にも立たない適当なものであるのだが。例えばアメリカのここ10年間の株価変動をみるとこんな感じになっている。

 これを見て現状がバブルと見るべきなのか、まだ正常範囲だと考えるべきなのかは人により判断が異なることもあるだろう。だが、サッカー選手の移籍費用(http://news.livedoor.com/article/detail/14129775/)など青天井にも見える資金のやり取りを見ると、少なくとも理性的なレベルの状態ではないと感じる人は私以外にもいるのではないだろうか。

 例えば、中国はもっと早期に経済的あるいは統治側面から混乱状態になるのではないかという予測が、数多くの識者から提示されてきた。日本財政破たん論(ハイパーインフレ論)と同様にその姿がなかなか見えてこないというのはその通りであると思う。個人的には、日本がハイパーインフレに陥るよりは中国の混乱が発生する方がずっと早いようにも思うが、流動的なのが世の中の常。中国のごたごたによりサプライチューンが壊れて、それにより日本経済に大きなダメージが出る可能性は十分にある。日本の信用は、高性能な製品・部品を生み出し続けられるところに立脚している。それが壊れない限りにおいて、日本という国の国際的な信用は容易に毀損しない。
 逆に言えば、日本が緊縮の道を歩み続けることで高い生産性を維持できなくなれば、一気に日本国家の信用は地に落ち、国債の暴落という現象も現実性を帯びてくるであろう。

 さて、中国は衰退するどころか今後も成長を続けるという意見もあるが、株価の変動をみる限りではそう楽観視できるものでもない。世界的な株価上昇の現在において、最もパフォーマンスが悪いのは中国市場である。共産党独裁の中国故に株価がどこまでの指標となるかは疑問もあろうが、中国経済が好調であるとか、あるいは今後も成長を続けるというのは株価を見る限りにおいて楽観視できない。ただ、一旦崩壊の方向が見えたと感じられた中国の不動産価格が持ち直したことが、現状世界経済(特に株価)が伸びているもっとも大きな理由ではないかと思う。日本のバブル崩壊でもそうであったように、先に不動産投機の崩壊があって1年程度過ぎた後に株式に反映される普通であろう。私の読み間違いは、以前の中国の不動産下落をそれと見誤ったことにある。

 ただ、中国の現状を見ると少々不思議な点もある。不動産は未だに上昇しているのに、株式市場はさっぱりだという現象である。私自身は世界的な株価の上昇の方が実態を反映しない金余りの賜物だと考えているので、逆に言えば上昇しない中国の株価の方が実態に即しているという見方もできる。世界的な株価上昇がいつまで続くかは誰にもわからないが、正直な感想としては上がり過ぎた方がその後の崩落は激しいと言ったところであろうか。
 一方で、日本が生産性のみではなく観光立国でも一定の存在感を示し始めているのは良い傾向ではないかと思う。まだまだ、観光立国として成立するには解決しなければならないポイントも多いが、少なくとも多様な収益源を国として持っているのは重要な事であろう。多くの外国人を観光という形で受け入れられるような国に少しずつ変わっていくことこそが最も重要なポイントではないかと思う。

 北朝鮮問題については、直ぐに大規模な軍事的な衝突が生じるというイメージは持っていない。チキンゲームの様なアメリカと北朝鮮のやり取りではあるが、軍事衝突以外にもできることはまだ数多くある。戦争を軍事面のみで行う時代は既に終わっており、むしろ経済面や制度面、そしてメディアや国際機関を使ったイニシアティブの取り合いにより常に行われ続けている。狭義の軍事的な戦争はそれができない国や組織が行うものであり、少なくともアメリカが北朝鮮問題で本格的な軍事オプションを使う可能性は現時点でも低い。
 だが北朝鮮側が追い込まれているのは事実であり、負けるに決まっている戦闘であっても、何らかの理由で試みなければならなくなる可能性は残る。理性的に考えれば取る筈のないオプションであっても、指導者の置かれた立場や情勢により、別の判断が生まれることはある。ただその確率は現状として低く、だからこそ直ぐには軍事的な衝突が報じないであろうと判断している。もちろん、情勢がいつ変わるかはわからないのだが。

 そんなこんなで、相撲協会の問題とか慰安婦合意についての韓国の問題とか、社会賑わす問題には事欠かないが、今年も良い年であります様に。
(一部20180109修正)

消極的支持

 自民党を含む与党が衆議院選挙において3連勝をした。左派メディアは、自民党は勝ったが安倍政権が信任されたわけではないとか、消極的支持(自民支持根強い若年層 目立つ消極的選択 衆院調査概況:http://www.asahi.com/articles/ASKBB5DMZKBBUZPS007.html)であるとかいろいろと書いてるが、極めつけは選挙制度がおかしいと言ったようなものであろうか。正直くじ引き論(http://www.asahi.com/articles/ASKBM2RC1KBMUCLV002.html)にはドン引きであるが、そこまで書かなければ自分たちのルサンチマンを解消できないのかと考えると少し気の毒になって来る。

 まあ、左派メディアや左派系の知識人が国民の考えや認識をきちんととらえられなくなって久しいが、現状ではBESTではないもののBETTERを選択するという行動を国民が取っていると思うのだがどうだろうか。それは言い換えれば「消極的支持」と呼ぶこともできる。左派メディアが喧伝する「消極的支持」とはBETTERの選択であるということではないのだろうか。仮にだとすれば、何ら可笑しな話ではない。国民はきちんと状況を理解して、BESTがいない中でのBETTERを選択してるに過ぎないのだから。
 BETTERの選択肢に野党が挙がらない理由は私が敢えて書くまでもないが、メディアが仕掛けた「モリカケ」問題という総理の首を取るには全く証拠の不足した問題に拘泥したことが一因としてあろう。国民は野党に政権運営能力がないと看過しているのである。

 同じようなことはテレビ番組で田原総一郎氏が激怒したというネット上で話題になった内容にも見られる(http://netgeek.biz/archives/105127)。私はその番組を直接見た訳ではないが、個人的印象として政権を引きずり落とすことを、政策論議ではなくスキャンダルのみに頼る様な野党が信頼出来るとはとても思わない。だから、ジャーナリストである田原氏が何に激怒しているのかが全く分からない。
 私も安倍政権の経済運営については、賛成できない点も多く持っている。アベノミクスについても第三の矢などは幻想に過ぎないと思うし、それを錦の御旗に掲げても無駄だとしか思わない。現状景気指標が上向きなのは、循環景気や団塊世代の引退による労働力の枯渇が最大の理由だと思う。そもそも安倍政権は、内政ではなく外交で支持を得ているという状況であろう。

 だが、では野党がそれ以上の結果を残せるかと聞かれれば、非常に難しいと答えざるを得ないのが実際だと考えるのだ。そもそも野党が掲げる政策に一貫性や説得力があれば、国民は消極的ではあっても支持すると私は思うのだ。兎にも角にも、政権打倒のみが目的化している政党にこれからの国の運営を託したいとは全く思わない。
 もちろん、安倍政権の人気に胡坐をかき驕り始めた自民党の政治家たちには私も嫌悪感を抱く。他者の人気を自分の力だと勘違いするなという気持ちは少なからず持っている。だが、それでも野党に政権運営を任せたいとは少しも感じない。それは政策論議が実質的に為されているとは思えないからである。

 微細な部分での議論はあろう。だが、野党が日本をどんな未来に誘おうとしているのか。曖昧な観念的な議論以外には量り取れない。これは自称リベラル(左派とは呼ばれたくない人たち:https://togetter.com/li/1163624)の主張と大きく重なる。昔ながらの理想論しか掲げることができず、現実的かつ具体的な提案を国民に魅せることができない人々なのだ。
 そして、時にはそれを見せられないことを国民の理解不足であったり、あるい「見ている世界が違う(https://mobile.twitter.com/levinassien/status/922232689981132802)」と言ったりしてしまう。だが、現実に見えている物は同じであり、見えないのは見えないようにしているからに過ぎない。

 確かに理想論は甘くて美しい。私も愛国主義の行き過ぎた言動はくだらないと思うし、それを賛美したいとは思わない。だが、同時に甘い幻想に溺れたくもない。それは一種、原理主義に陥ることに等しいからである。自分が正しいと考えることは容易でかつ甘美である。だが、常に自分の思考と現実の差違を認識し考え続けるとすれば、仮に理想の姿とは異なったとしてもそこに至る過程として現実を受け入れなければならない。まあ、私の考える理想は左派思想家や識者のそれとは異なるのだが。
 世界は徐々に統合に向かっていると私も思う。だが、そのためにはまだ何十年、いや百年以上の時間が必要だと私は認識している。それくらいに、文化や習慣の違いは世界中で大きい。融和を抱えるのは悪いことではないが、融和を強制したり前提に掲げるのは現実的なステップを考えると誤りだと思う。
 多くの人が考える考える以上にずっと世界は複雑で、それを平滑化するには時間が必要なのだと私は考える。少なくとも私が死ぬ前にそれが容易に実現するとは思わない。人間とはそれほどに単純なものではないのだ。

 さて、メディアが報じる支持政党を見ると若年層では自民党が多いと出ている。以前より書いているが、現在のリベラルを自称する(あるいはマスコミが呼称する)政党は、私からすればむしろ旧主派に見える。現状をあまり変えたくないメンバーである。現状を変えないようにしながらも、夢だけは語り続ける。その夢に至る具体的な道筋は語らないままに。
 そして、そのような曖昧な方法論はネットにより数多く論破されている。若者たちは、一部間違いながらもメディアの喧伝する心地よい言葉には惑わされなくなっているのが現状であろう。少なくとも、彼らは情報入手の選択肢を持っているのだ。そしてBESTではないと理解しつつもBETTERを選択する。それを消極的支持と認識する限りにおいて、メディアは現在手放ている民意を再び手にすることはないのだろうと思う。