Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

夢想と理想と現実主義

 一般的に、理想と現実は対立概念として語られることが多い。現実主義者と理想主義者は全く反対の意味を持つ。だが、理想と現実は必ずしも対立しない。理想が極端になればそれは夢想と呼ばれるが、むしろ夢想と現実は完全ではないが対立的な概念であるように私も思う。理想は人が行動を起こすための動機付けであり、現実的な対応は実際の行動や進め方に区分される。すなわち理想と現実は併存可能なのだ。

 

 夢想という言葉は「お花畑」と揶揄されることも多いが、世の中にはこのような言葉で括れる典型的な夢想よりも、どちらかといえば原理主義的な夢想が数多くあふれている。夢想と理想はかなり似ているように見えるが、先ほども触れたように理想は現実との連携が可能だが、夢想にはそれができないという違いを持つ。それ以上に、夢想家はそもそも現実との関係性を持とうとすらしないことが多い。なぜなら、現実を見据えた瞬間に理想はきれいな存在ではなく、どちらかといえばギラギラ・ドロドロとしたものに近づく。それを夢として奇麗なままにしていたいという気持ちが、結果的に原理主義的な夢想を生み出す。奇麗な状態を維持するためには不可侵でなければならなず、帰着として決して妥協できない考えに行き着く。本来は夢というふわっとした存在であるはずが、いつの間にか確固たる信念に替わり得るという訳だ。両者には明確な断絶があると私などからすれば思うのだが、それを主張する人たちには見えないらしい。

 

 人間社会は、いろいろな面において汚い面が数多くある。それを全て見ないようにすることは不可能であるだけでなく、私はこうした汚さにも価値があると考えている(汚さを積極的に肯定するわけではない)。ただ、それを生理的に受け入れられない人が社会には一定数存在する。これは私の勝手な妄想だが、どちらかといえば潔癖症的な人ほどそうした考え方に左右されやすいのではないかと考えることもある(根拠はないので信じないように)。これは原理主義的な思考に陥るのが、性格的な理由に由来しているのではないかという推測である。

 

 目の前に許容しがたい現実があり、それを理想に近づけていこうという考え方は悪くない。ただ、理想に至る方策が現実的でなければ物事は動かない。現実主義という言葉が悪い意味で用いられる場合には、理想に向かう動機を失ってしまい現実に安住しているケースがあろう。あるいは、既得権益者が現状維持を目的に夢を軽く扱うというのもある。ただ、現実を許容しがたいと考える状況自体もいろいろなケースがあろうが、現代の日本では本当にそこまで切羽詰まるような状況は多数ではない。むしろ、現実的な選択肢が存在しているにも関わらず、それに気づけず、あるいはそれを選択させてもらえない状況に陥っていることが多いのだと思う。

 他方、夢想家のそれは今ある現実を一足飛びに理想に結びつけようとしてしまうことが多い。理想を掲げる姿勢が問題というよりは、そこに至る現実的な処理能力や人脈が不足しており、ままならないというケースであろう。左派識者にもそう言った感じの人は少なくない。だが、その人が不満に思う現実が他者からすれば十分に恵まれていることも少なくない(十分な地位にありながら、自分の意見に多くの人が賛同しないなどの不満を持つ)。ただ、残念ながら現実に対する否定的な主張というものは、多くの人の心を動かすのもまた事実。ネガティブな現象は多くの人の心を揺さぶり、理想への希求を強めてくれる。問題は、現実と理想の間を如何に繋ぐかにあるにもかかわらず。

 

 人は現実のみでは耐えられないが、理想のみでも挫折感を多く味わってしまう。必要なのは自分なりのバランス感覚であるのは言うまでもない。現実のみに拘泥するのではなく、理想に向かい現実的に歩みを進めていくことが最も重要だと思うのである。

 そんなことは誰もが知っているはずのこと。それなのに私たちはいつも短気である。その短気さが原理主義という極論を生み出しているのかもしれない。世の中の運動は、多くの人の興味を引くために強い主義主張を掲げることが多い。だが、それはかつて有名になったシーシェパードグリーンピースの中でも極端な活動家のように、暴力的になることが多い。現代社会においても暴力は恫喝としては有効な手段の一つだが、それでも表の社会では手を出した方が負けである。

 

 現実主義者よりも夢想家の方が暴力的になりがちなのは、ある意味において大変興味深い。ただ、マスコミは一般的に夢に対する親和性が高い。それは理想に賛同しているわけではなく、乱を呼ぶことへの共感ではあるが、その二つが結びつくこともこれまた興味深い。

 

 どちらにしても、私としては現実的な歩みにより理想に近づいていきたいと常に思っている。短気を起こさないように。

韓国に寄り添わざるを得ない朝日新聞

 朝日新聞の主たる記事作成方針を決めている人の考え方は私にはわからない。ただ、これまでの流れから読み解くに、朝日新聞は自分たちを守るためには韓国を擁護せざるを得ない状況に陥っているのではないかと考えている((耕論)嫌韓論の正体 鈴木大介さん、安倍宏行さん、木村幹さん:朝日新聞デジタル)。自業自得ともいうべき事態ではあるが、彼らが自分たちのこれまでの在り様を守るほどに、そうせざるを得なくなっていく。抜け出すことは容易だが、プライド故に抜け出せない。そんな状況であるのだろう。

 

 私は、立場として個人的には嫌韓のつもりはない。もちろん韓国に対する厳しい意見や、間違った主張に対する反論、あるいは韓国の行く末を憂うようなエントリを書いているのは間違いではない。だが、かつて韓国人に友人もいたし(喧嘩別れしたわけでもないが、交流の機会がなくなったため疎遠になった)、実際訪韓したときにはいろいろと良くしていただいた。また、韓国からの留学生等と接することもあるが、まじめで努力家が多い印象である。もちろん、様々な日本人がいるように様々な韓国人がいて、良い人も悪い人も存在する。だが、それをステレオタイプに決めつけることは厳に慎みたいものである。

 それ以上に、民族固有の常識や慣習あるいは文化の違いがあるため、それに優劣などは存在しないと考えている。あるのはただ違いのみである。日本が優れている訳でも韓国が素晴らしいわけでもない。様々な野で競争している存在ではあるが、個別の優劣には大きな意味がない。両者は背景も立ち位置も、そして目指す道や理想の姿さえも全くの同じではないのだから。逆に言えば、だからこそ両者の違いを片方に合わせて修正することは自分たちの常識を変えろというに等しい。それ故に、お互いに対応が本当に難しい。

 ただ素直に事実を考えるとき、こうした問題を修正するために条約や国際的な常識というものが決められており、それを守っているのが日本であり、国民感情を理由にそれを一部守ってないのが韓国である。かつては、国際常識として韓国に理がなくとも、日本は受け入れてきた経緯もある。ただ韓国の経済力が十分に高まった今、一般論としてもそれを継続する理由はどこにもない。

 

 さて、かつては朝日新聞は韓国には否定的な論調であった時代があると言われる。北朝鮮や中国に近しく、軍事政権にあった韓国を攻撃していた時代である。現在では嫌韓メディアとして取り上げられることの多い(私は嫌韓メディアだとは思わないが)産経新聞はむしろ韓国擁護派であったころ。それが今では朝日新聞が諸手を挙げて韓国擁護の記事を書く。

 だが、実際には朝日新聞が直接的に韓国を擁護したいわけではない。日本の政権批判をするためにはそれが都合がよいから利用しているに過ぎない。日本が韓国を援助しアメリカとの緊密な体制作りをしていた時代には、朝日新聞は日本政府には対するポジションだから韓国を否定する。一方で、今は日本と韓国が少なくとも心理的には過去最悪と呼ばれるほどの冷え込みを見せている。だからこそ、日本政府に対抗して様々なクレームをつける韓国の味方をしている。単純にそれだけのこと。

 今となっては想像が難しいが、仮に再び韓国が親日的なポジションを取れば朝日新聞は韓国に厳しくなるだろう。

 

 要するに、日本の保守政権に対する自らの立ち位置を韓国を使って婉曲に否定して見せているだけである。もちろん直接的にも否定的な言説をしているが、それでも世論は朝日新聞に否定的であり続ける。その状況が進む一方。もはや、韓国擁護については自らの築き上げてきた言論を維持するための一つのよりどころとなりつつある。

 考えてみれば、韓国のメディアが書く「反日ではなく反安倍」というのは、朝日新聞と極めて近い考え方ではないか。だが、日本の世論がそうではないことは誰もが知っている事実でもある。そんな事実に目を隠していることもまた似ているのである。

 

 朝日新聞が多少なりとも世論の支持を回復する方法は、これまでのような政権否定のために総動員する姿勢の転換ではあるが、残念ながら彼らには決してできやしない。少なくとも現在の紙面の方向性を決めている人たちが退職していくまでは。そして、仮にそうした人たちが抜けたとしても、これまで自ら取ってきた姿勢が明らかだからこそ、容易には方向転換できないであろうことも予想に難くない。

 結果として、反日に邁進せざるを得ない韓国の状況と、政権を否定しなければ立場のない朝日新聞の置かれた状況は非常によく似ている。そして、心の底から望んでいるわけではないにしても、朝日新聞は韓国に寄り添わなければならないポジションを取っているのである。

津田大介氏の行く末

 あいちトリエンナーレが終了した(津田大介氏「プラスで終われた」 トリエンナーレ閉幕 [「表現の不自由展」中止]:朝日新聞デジタル)。だが、そこで明らかにされた問題は今後大きく尾を引くだろう。問題を単純化してみれば、実は天皇陛下の写真侮辱問題や特攻者への敬意なき対応などがクローズアップされるが、それよりも何よりも税金に巣くう仲間内での仕事融通問題が垣間見えたことであろうか。こうした事例は何も芸術分野に留まらない。NPO関係などでも、自治体予算を如何に仲間内に配分するかで知恵を巡らせている例は数多く存在する。公共という隠れ蓑を使い、税金に集る人たちは少なからず存在しているということ。知っている人には既知の情報ではあるが、それが多くの国民の目に触れたことがポイントだろう。

 もちろん、価値ある芸術を保護していく役割を公共が担っている側面はある。だが、それは確定した価値のある芸術を保護することであって、自分勝手な表現を保護することではない。だが、役所側も自分たちの裁量を広げたいという存在的な欲望を常に持っており、仕事を得る(あるいは名声を得て仕事につなげる)という作家側の考えと見事に結びついた状況である。さらに言えば作家側にも仲間が存在し、仲間が仲間を呼び合う仕組みが出来上がっている。この仕組みは省力化に寄与するが、既得権益化への呼び水にもなる。

 

 さらに、確定した価値のみに着目すれば、既存の大家のみが機会を得て新たな芸術表現が育たないという意見も確かにあろう。だが、それを公金によりどこまで援助(フォロー)するのかについては限界があるはずである。今回の問題は、そこに取り入ろうとする考え方と、それを制止しようとする考え方のせめぎ合いであり、ちょうどよい落としどころを探ることが何より重要である。

 一つには、作家を選ぶ選定委員(あるいは実行委員)の知己は参加できないというのがあろう。利益相反に値するかどうかの判断は難しく、線引きが困難なのはわかるが、明らかにインナーサークル的なそれは許されないということではないか。

 

 今回の問題は、昭和天皇の写真に対する明らかなヘイトを芸術と言い張っているポイント(他にもいろいろ)がクローズアップされているが、それよりも芸術利権に巣くわんとする特定勢力の素材を赤裸々にした。社会問題になったきっかけはヘイトと芸術の線引きであるが、実態は芸術利権のどす黒さにある。

 そして、これまでうまく芸術というカテゴリで誤魔化せてきたものを、津田大介氏が見事に炎上することで可視化させた。鷲田めるろ(鷲田めるろ - Wikipedia)氏等が文化庁の委員を辞任(文化庁事業の委員が辞任 トリエンナーレ補助金不交付反発|全国のニュース|佐賀新聞LiVE)したようだが、私は文化庁の判断自体は間違っていないと考える。これは芸術文化への介入ではなく、芸術文化を利用した不当な活動に対する否定であると思う。

 

 正直なところ、芸術は余力のある時代や余力のある所に生まれ得る。その余力は江戸時代のそれのように庶民的なものから、ヨーロッパの貴族社会で広がったものまで様々だ。民間においてそれが広がることに反対するつもりはないが、政府がどこまでそれを支援するかは常に考えられなければならない。伝統的な芸術を保護し、後世に残していくことには賛同する人は少なくないだろうが、前衛的な芸術については民間において生き残ったモノのみを支援するだけで十分ではないか。こういった感覚に賛同する人は少なくないと思うのだ。

 自分の感覚や感性、あるいは社会的アピールの表現として前衛的な芸術を作る人は少なくない。だが、現代芸術の賞味期限は決して長くない。マルセル・デュシャンの「泉」(泉 (デュシャン) - Wikipedia)は有名であるが、この作品はエポックとしての意味は持つが美術品そのものとしての価値には疑問が残る。

 

 創作が社会において重要であることは私も認める。だが、特に思想的なそれを積極的に公的資金において援助し、あるいはお墨付きを与えることには疑問を持っている。特に美術界においてほとんど実績を持っていない津田大介氏を美術監督に選んだこと。それそのものが美術界に対するアンチテーゼですらあると思う。

 だが、今回の出来事はどのような締めくくりをしたとしても、美術界の税金にすり寄る状況を国民の目に焼き付けた。システム的に、こうした支出に対する規制は間違いなく厳しくなるであろう。そして、時間をかけて津田大介氏はその戦犯として記憶されていく。だが、彼のフィールドは本来そこではない。いつでも離脱できる。

 

 兎にも角にも、美術界における公的資金確保に大きな傷跡を残した事件として、今後は語られるのではないだろうか。

河川氾濫と防災意識

 今回の台風19号による被害に遭われた方々の救出やご無事を祈るとともに、速やかな復旧を祈念してやみません。未だ進行形で被害が拡大中ですが、煽るようなデマや下手な楽観論ではなく現実の被害可能性を推測して、最善の行動をしていただきたいと願っています。

 

 最終的な被害が全体でどの程度になるかは現状想像できないが、過去最大級の範囲に及ぶのではないかと感じている。経済的損失も相当のものになるだろうし、人的被害も今後徐々に明確化されていくと想像する。阪神淡路や東日本大震災の時も、被災初期には全体像がつかめずに小さな被害しか把握されていない。被害は全体像が見えてくるにしがって大きくなっていく。ちなみに、これだけ多数の河川が同じ台風の影響で氾濫したという事例はそう多くはないだろう。昨晩など、ネット上では「期待外れ」とか「気象庁は煽りすぎ」などという書き込みが多数行われていたが、全体像は井の中の蛙にはわからないものである。気象庁NHKが「命を守る行動を」と情報発信していたのは、決して間違ったことではなかった。

 

 一方で、東京周辺では一部河川氾濫はあったものの、全体としては堤防の増強や放水路の建設などが相当の効果を上げたのではないかとみている。多摩川における氾濫は、現状の報道等を見る限り堤防建設に住民が反対して十分な工事がなされなかった(というよりは、堤防内に住宅が建設されている)ケース、宅地の排水が追い付かずに溢れているケースなどが中心となっている。ネットに上がってきた数多くの動画や写真は、ギリギリのところで河川が耐えている状況である(一部の越水は見られたが)。

 こうした状況は、精緻な水のコントロールが為されていたおかげではないかと思う。ダムの放水もあるが、別の放水路への水の誘導など、河川が溢れないように流れる水の量を場所との兼ね合いで調整していたと考えるのが妥当ではないか。そうしたコントロールシステムがあるのかどうかについても知っているわけではないが、門の調整等が行われていたと考えたほうが良いのではないかと思う(実際、支流が堰き止められている画像等は上がっていた)。

 

 台風の風や雨の精緻な予測をすることはほぼ不可能である。雨が多いことや風が強い予想は規模によりできるが、それにより降る雨がどの水系に流れ込むかまでを予測することは難しい。誰が箱根で1000mmを超える雨が降ると予測できただろうか(気象庁の予想では最大で800mmだったと思う)。

 日本の防災対策は先進国の中でもトップクラスである。災害大国であるのが最大の理由ではあるが、それでも完璧ではない。そもそも防災でパーフェクトはコスト的にあり得ないのだ。ただ、徐々に改善を続けることはできる。不断の努力は今後も続けてほしい。ただ問題になるのは、防災に対する意識であろう。防災対策が施されるほどに、甘く考える人が増えていくことは防ぎようのないことだが、そうした人たちの不適切で不用意な言説が社会に広がることを防止できないことは気になる。情報リテラシーを高めることが本道ではあるが、その量が多いと惑わされる人も少なくないだろう。

 

 さらに言えば、地盤というものは雨や水により常に変化する。舗装されたいつも使っている道路が突然陥没するようなニュースがたまに出るが、地下水の移動により土が流されてしまうなど、今は大丈夫でも状況により変化する場所はいくらでもある。メンテナンスが必要なものなのだ。さらに言えば、都市ではその調査がある程度行えても、市街地を離れると場所が多すぎて対応が追い付かない。コストパフォーマンスもどうしても落ちてしまう。

 要するに、安心は防災対策の積み重ねにより担保されるが、それも絶対ではないということ。社会は絶対的な安心を求め続けるが、そんなものはどこにもありはしない。結局できるのは継続的な対策と、住民の意識の維持である。水害は、毎年のように日本のいろいろな場所で生じている。それを他山の石として十分に認識しなければならない。ネット上で揶揄できる状況は、偶然の上に成立しているのであるのだから。

利用したくなる人になる

 上手く人との繋がりを作り、それを発展させられる人がいる。一方で、十分に能力を持っており、それを使って人脈を構築しようとしても広がらない人もいる。自分で考える能力ほど評価されなかったり、能力的に劣ると思う人が賞賛されてたり。この差は性格によるといえばそれまでだが、それ以上に自分自身に対する考え方の差異がある様な気がしている。

 

 基本的に人は社会という環境の中で、人間同士の結びつきにより立場を作り、関係性を深めていく。個人でどれだけ努力しても、応援・協力してくれる人がいなければ、成功には結びつかないことが多い。もちろん十分図抜けた才能を見せつけることで、周囲が喜んでサポートしてくれるケースもあるだろうが、そうしたものは一部の天才にしか許されてはいない。また、仮に潜在的な天才であっても、世の中に見出されないままに埋もれていく人もきっと多いだろう。

 

 一人で自分の将来を切り開く。こう言えば格好良いが、実際には多くの人との関わりの中で成功に結びついていくのが普通である。関わった人たちの寄与を個別に考えると深くないかも知れないが、それらが積み重なることで道筋が出来ていく。

 私たちは、自分の評価は他人にゆだねるべきではない。こういう考え方には私も一面で間違いなく賛同する。だが、それは他者を排除すべきと言うことを意味しているのではなく、他者の言動に惑わされないという決意を表す内容である。

 

 人は社会の中で生きている。それ故に、人は人を利用する。その言葉のみに着目すれば余りよい印象は抱かないかも知れないが、利用のし合いこそが人の連関を生み出す重要なファクターだと思うのだ。だからこそ人を利用するという主体的な面も必要だが、それ以上に他者から利用したいと思わせることの方がもっと重要なのだ。

 例えば、私は若い時にある雑誌編集者に、様々な人への紹介をいただいた。当時、私はさしたる人脈も持っておらず、その時に頂戴した人脈が今にも生きているという意味で、その編集者の方には深く感謝している。さて、彼はなぜ私をいろいろな人に紹介したのか。性格として、そう言うことが好きだったという側面はあるだろう。だが、それと同時にそのマッチングが彼にとってメリットのあることであったためではないかと考える。

 

 自分の能力に自信を持つことは重要である。それがポジティブな情動を自分に与えてくれるから。だが、同時に自分の能力を相対化して「なるべく」客観的に見ることもまた重要である。独りよがりな評価に意味はほとんどない。そして、他者に私たちを利用したいと思わせることが、自分の能力を磨くのと同じほど大切なことであると考えている。孤高の人には近づきたくないし、自分の能力をひけらかす人にも同様であろう。だが、人のために動き、協調性を感じる人なら一緒にやってみたい、あるいは誰かに紹介したいと思わないだろうか。その行為は紹介する側にもメリットがあるということである。

 

 ここで言っているのは、都合の良い人間になれと言う意味ではない。唯諾々と他者の言うことを聞くのではなく、こんな面白い人間だからこそを他者に紹介したいと思われることである。全ての人が決定的に社交的な訳ではない。初対面の人と容易にうち解けられない人も少なくないだろう。だが、仲介者がいればその障壁は著しく低くなる。私たちは自分の人脈を広げるために、自らが行動しなくとも人の紹介という形で連関を広げることができる。

 飛び抜けた才能を持つことはその一つ、そして最大の方法である。だが、仮に飛び抜けていなくとも、他者に紹介するメリットがあると思わせれば、どこか普通より抜けた部分があると、あるいは面白い発想が出来るとか、凄く真面目であるとか、木訥で在ることが好ましいとか、その内容には制限はない。

 

 だが、私たちは無意識のうちに他人に利用されることを忌避している可能性がある。そんな側面が見えると、生理的に拒否をしてしまうケースも少なくないだろう。それは他者が得るメリットにばかり目が行き、自分に跳ね返ってくるリターンにまで気付いていないのではないかと思うのだ。「自分が、自分が」という部分に目が行きすぎて、直接的に利益に飛びつこうとする。だが、他者から見ればお互い様の部分が見えないために、それこそ拒否感が働いてしまう。社会の中の出来事だから、それを持って全てのことを拒絶する訳ではないが、人脈構築や信用の側面で大きく不利になる。

 もちろん、自己主張しなければ取り上げられない世界は間違いなくある。コンペティションにチャレンジし、社会的な発信を行い、自分を売り込まなければ有名にもなれないし、自分の主張を聞いてもらうことすら出来ない。だから、今回私が言っているのは「口コミ」マーケティングに関するものである。

 

 Win-Winという言葉が一時もてはやされたが、先に与えるか、後に与えるかの違い。まずは先に他者にメリットを与えること。自分が利益に預かろうとせっつくほどに、その果実は逃げていってしまう。

 なめ合いの様なコミュニケーションが多いこの時代ではあるが、押しつけにならない範囲で興味深い発信するものが多い人ほどこうした恩恵に恵まれていく。他者にはない自分だけのものを探す。たったそれだけのこと。だが、何より難しいこと。

 結果を期待せずに、自分が信じる道を行くことがそれに該当するかも知れない。最初に書いたことだが、自分を信じることは何よりも重要である。それで自慢したり、プライドをこじらせたりと言うことではない。ただ、他者との違いを分かりやすい形で見せること。そしてそれを利用したいと思わせること。結果としては自分も利用することになるが、まずは与えること。

 

 最終的には才能と努力が何より重要で、その結果として社会的な評価や地位に結びついていく。だが、その過程において他者が別の他者にあなた自身を紹介するメリットを感じさせることが出来れば、それは一つ多きなアドバンテージになるだろう。

程度を議論しない人たち

 物事の白黒をつけるというのは非常に分かりやすい。全てのことが悪と善にきれいに分けられるのであれば、大部分の人にとって世の中は今以上にすっきりするかもしれない。だからこそ勧善懲悪の時代劇は人気を博し、政治家でもポピュリストと呼ばれながらもそれを指向する。だが、現実には明確に善や悪に分類できるようなものは稀にしか存在せず、ほとんど物も人も場面も白の部分と黒の部分を併せ持っている。

 その両者を全て含め飲み込んだ上で、それでも如何に価値があるかを競うのだ。完全無欠の人間が存在しない様に、完璧で壊れることのない機械がない様に。ミスや間違いあるいは悪い面も含めて判断する。その裁定基準として常識が存在する。もちろん、悪の力が強くなりすぎて常識を逸脱してまで勝つことは許容できないため、法律により許せないボーダーラインをルールとして決め、あるいは強制力を与えている。

 

 このように、国内問題であれば法律によりある程度の対処は可能(だからこそ権力者は法律執行者を押さえようとする)だが、国際間の問題はもっと複雑である。国内的なルールほど厳しくできないため、自らの味方をどれだけ増やすが勝負の分かれ目になる。倫理的・論理的に正しくとも、味方が少なければ負けることが多くなる。

 だから、私たちは善悪を判断したり正義か否かを定義づけることではなく、問題が包含している(含む)良い面と悪い面双方の程度を常に考えなければならない。だが、残念ながら多くのケースでは、表面的な二項対立が演出される。特にメディアがそれを扱うときの姿勢が顕著である。わかりやすさやインパクト。それを優先するために、中身の議論が放置されてしまう。

 

 例えば、韓国が日本を責めるときにまず最初に使う問題として、いわゆる「従軍慰安婦」問題がある。私はその当事者たちを可哀そうだとは思うが、韓国や一部の日本のリベラル系論者たちが主張するような、日本の国家的犯罪ではないとと考えている。

 とくに問題とすべきは、そこで用いられている数字である。「20万人」という数字が、韓国や北朝鮮からは何度も発せられている。当時の朝鮮半島の人口が約2000万人で、そのうち半分が女性として1000万人となる。その中で適齢期の女性が20%を占めると仮定して約200万人(既婚未婚を考慮せず多めに見積もっている)。すなわち、適齢期女性の10人に1人は強制連行されたらしい。その数字のバカらしさは、誰もが認めるところだろう。若い女性の多くが強制的に連れていかれるような状況で、そんな状況に反対せずに暴動等を起こさないということは考えられるだろうか。当時ですら、朝鮮人は粗い言動で有名であったのだ。 

 同じ様なことは、南京大虐殺と呼ばれるものである。私は南京で戦闘行為があり、その中で人が殺されたのは事実であろうが、30万人とか言う大虐殺ではないと考えている。こちらも、数字が極度に誇張されていると見ている。こうしたものは、宣伝戦として国家間のマウントの取り合いにおいて活用されてきた。特に戦争に負けたという日本は、その点において抗せいられないため絶好の標的となった訳である。

 

 ちなみに言えば、今韓国は朝鮮戦争時代の慰安婦への補償を求め、アメリカに喧嘩を売り始めている。日本に対する策がもう一つ上手くいっていないため、実際の被害者が多く存在する方向に舵を切りだした様だが、これこそ本当に筋が悪い。韓国が国内闘争を勝ち抜くために外国を利用することは歴史的にも明らかだが、それは国家として必ずしも健全な状況ではない。特に、味方にしておくべき国家を国内対立の理由として遠ざけることは、将来に向けて大きな禍根を残すことになる。一度裏切った者は容易に許されないのである。

 

 さて、同じ様な話は韓国がオリンピックに向けて日本下げの理由で再びクレームをつけ始めた汚染水問題に代表される原発問題、嫌韓的な言論を否定する左派系メディアや識者達にも言える。世の中の事情とは、それほどきっぱりと割り切れるものではない。最近の左派識者は非常に不寛容で攻撃的である。それは、自分たちの活動が広がりを見せないことに加え、批判的な声が大きくなっているからであろう。だが、この思想的不寛容さこそが多くの若者を遠ざける源泉となっている。

 一般的に若者達はリベラル的な思想を受け入れやすい。最近の左派こそが守旧派になっていることについてはかつて書いたが、それでも思想を同じくする人以外に対する姿勢こそが若者を遠ざけているのではないかと思う。負のスパイラルとでも呼ぶべきだろうか。主張に現実性がない(夢見がち)→それを指摘される→反対意見に対する無視や身内のみでの慰め合い。

 ここで言う現実性のなさに、タイトルでもある程度の議論がある。善か悪かという対立要素で見れば、いわゆる慰安婦問題や徴用工問題などは断罪されてしかるべきかも知れない。だが、その背景には強制性の問題や実際の数の問題があり、程度を考慮した場合には考え方が変わることは少なくない。だが、それを議論することを器用に避けていくのである。広義の強制性などという新たな概念を持ちだし、あるいは数を検証せずに事実問題のみに議論を限定する。

 

 私は、日本の全てが良いし正しいとなどとは考えていない。場合によっては、日本にクレームばかりを付ける韓国の意見が正しいこともあるだろう(最近は容易に思いつかないが)。彼らにも彼らなりの戦略があり、国家として生き延びようとあがいているのは事実である。それが上手くいっているかどうかは別として。

 例えば、韓国は東京オリンピックをボイコットせざるを得ないという考え方が披露されていた(カイカイ管理人「韓国が東京オリンピックをボイコットせざるを得ない理由」 : カイカイ反応通信)。絶対にそうなるとは言い切れないが、これまでの行動を見れば説得力ある論考だと思う。私も以前より、韓国の日本に対する嫌がらせが増加するであろうことは何度か触れてきたが、日本からすれば迷惑な話だが、韓国なりの生き延び策であることは否定はしない。それとどのように相対するかは日本が決めるべき事である。

 それを詳細や程度を考えずに、断交すべきという言説も、日本が譲歩して仲良くすべきという言説も、私にとっては同等に興味がない。単純化された分かりやすい内容は、物事の概要を短時間で伝えるには役立つが、詳細を考える上では全く意味がない。

 

 私はリベラル系の識者やメディアにこそ言いたい。自己主張を否定されることを恐れすぎて、世の中の声に耳をふさぎ、周囲を否定し、寛容さを失う状態。それに陥ってしまっているからこそあなた達はまさに今、力を失っているのだ。まずは寛容さから始め、その上で繰り返し論理を持って利を説くこと。それが説けなければ、それはあなた達が持っている論理が弱く、理が不足していると言うこと。

 私は、どちらかといえば保守的な思考であるが、リベラルを否定しない。様々な考え方には、それが適用されるべきタイミングがある。その時期を掴んでいるかどうかが全てだと思う。タイミング無き論理には、大きな力を期待出来ない。それは宗教や慣習で行うべき事で、外交や社会問題などを考える上では不適である。

 

 まずは、有無ではなく、善悪でもなく、程度を議論すべきであろう。

豚肉パニック

 既にメディアでも何度か報道されている内容に関連した情報だが、中国だけではなく韓国でも豚コレラが発見され、早速中国政府は韓国産豚肉の輸入制限を実施した(中国、韓国からのブタ輸入を禁止 アフリカ豚コレラ発生受け 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。だが、豚コレラ被害は日本でも広がりつつあり’(日本の畜産壊滅か…!? 豚コレラ「殺処分と拡大阻止」の壮絶な現場(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/4))、致死率100%とも言われる強力な感染症は世界中の畜産業に大きな影響を与えかねない(広がる豚コレラ ワクチン接種で揺れる国・業者 :日本経済新聞)。特に野生のイノシシが感染源ではないかと想定されており、その撲滅にはかなりの時間が掛かることになる。加えてワクチン開発には10年レベルの時間が必要との声もある(追記:アフリカ豚コレラはまだ日本には入っていない様で、日本の場合にはワクチンが存在するようだ。一方中国で広がっている豚コレラにはワクチンが現状存在しない)。

 

 だが日本では、輸出はともかく国内的に見れば豚は食肉の一つとして重要ではあるが致命的な存在ではない。何よりも豚肉を重視するのは、中国でのことである(豚肉を食べさせろ! パニック状態になる中国庶民 | ニコニコニュース)。既に公式統計でも1100万頭近くの処分が行われていると報道され、一部では1億頭(全体の1/3以上)を超えるとされる(CNN.co.jp : アフリカ豚コレラで1億頭処分、緊急備蓄の放出も 中国)ように原産地がアフリカであるとされるコレラの影響を既に大きく受けている(中国、備蓄豚肉放出へ 豚コレラ流行受け 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)。一時期は沈静化しているとの報道も出ていたが、残念ながらそれはパニック抑制のための情報統制だった様だ(日本も要警戒を 中国でアフリカ豚コレラが猛威:日経ビジネス電子版)。既に中国における豚肉価格はかなり上昇(40%近く)しているとされ(豚肉がピンチ! 中国人の「国民食」高騰に政府があの手この手 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News)、配給が始まっているところもあるとの情報も出ている(中国の豚肉急騰、祝賀行事控え対策に苦慮 - WSJ)。さらにこの問題が申告なのは、収拾に入るのではなくまだ拡大しつつある状態のままなのだ。

 多くの人は知っていると思うが、豚肉は中華料理には欠かせない。中国の食肉の約60%が豚肉とされる様な国民食材である。一方で、過去の政変というか政府妥当の動きというのは食糧難から始まることが多いことも事実。今回の場合は、全ての食料が不足している訳ではないが、アメリカとの貿易戦争において面子を捨ててでも食料輸入への妥協案を出さざるを得ない(米中次官級貿易協議始まる 中国代表団が農家視察へ、大豆や豚肉に関心 - エキサイトニュース)のは、こうした背景と無縁ではない(中国、米産大豆・豚肉など追加関税除外へ 交渉控え緊張緩和 - ロイター)。

 中国の豚肉消費量は世界的に見ても非常に大きく(世界一の豚肉消費大国:中国の動向をレポート | 高橋 寛 オフィシャルサイト)、50%以上を占める。そんな国の供給量が壊滅してしまうと、世界中からかき集めても豚肉が不足することになる。さらに豚コレラが世界中でも猛威をふるえばそれすらも不可能になる。実際、中国は経済発展のおかげで豚肉の消費量が急増しており、庶民が一度味わったモノを容易に捨てられないのはどこの国でも同じ事。これが反政府運動に広がるかどうかは今のところわからないが、現在進行中の香港問題よりもこちらの方が共産党政府にとってはずっと深刻な問題なのではないかという気がしている。

 

 この問題が怖いのは、打てる手が少ないことと、じわじわと深刻度が高まっていくことであると考えている。急激なパニックを引き起こす訳ではないが、徐々に中国国民の不満が高まっていくことがミソである。今後、各地で豚肉デモが発生し始めると、その動きは全土に広がっていくことになるだろう。今のところ、そこまでの広がりを見せてはいないが、だからといって問題が収拾している訳ではない。むしろ、米中貿易戦争どころではなく国内パニックを押さえるのに精一杯ということにすらなりかねない。

 面子では飯は食えない。まさにそういうこと。中国の人口はある意味で大きな武器であるが、同時に最大の弱点でもある。その弱点をさらけ出さざる得ない時、強力な統制力で国内を締め付けている中国共産党ですら制御出来ない動きが起こってもおかしくない。米中貿易戦争レベルや、中国国内の不動産バブル崩壊は強権発動により対応出来ても食い物の恨みはそれ以上に恐ろしい。今の中国が成立しているのは、何より国民を食べさせられているからなのだから。

税金に集らせろという権力・思想闘争

 世の中の様々な国内闘争(思想や言論も含めて)を見ていると、根本は権力側につき税金を自由に差配できるようになることが究極の目的に見える。実際、会社を興してお金を稼ぐことは容易なことではない。周囲を見渡せば、数多くの会社(お店)が次々と生まれるものの、その大部分は5年もたたずに消えていく(会社の創業5年以内生存率15%は本当か? | 創業融資センター)のがごく普通の光景である。新たに会社を興し、お金を稼ぐことは本当に難しい(引き継ぐのも難しい面があるが、最初に興すよりはマシである)。公務員をはじめ、会社員や雇われの人たち(特に大企業)はそのことを実感としてよく理解できていない人が多いように感じるし、メディアなどもそうした認識が希薄に見える。結局彼らもその大部分が安定したサラリーマンなのだから。

 

 もちろん、企業後に運よく安定化や大きな成長に結びつけられることもあるだろう。その道のりも平たんであるとは思わないが、一時的な成功後ですら大企業に資本の論理で追い越されたり、時には買収されたりの危険性が存在する。会社を興す段階から銀行からは軽くあしらわれ、役所からは冷たく接せられる。その程度でくじけていては成功など覚束ないが、安定したとしても常に数か月先の資金繰りの心配をしなければならない。逆にサラリーマンとは言えど、会社の存続に気を回さなければならない時代にはなった。終身雇用など遠き日々の夢の如きである。だが、それでも常に資金繰りを考えなければならない創業者と雇用者の認識には大きな隔たりが在るだろう。

 

 そう考えると、税金というものは本当に上手くできたシステムであることがわかる。節税という名目で胡麻化そうとする金持ちは後を絶たないものの、企業からはシステムとして間違いなく税金が徴収できる。不足すれば、財務省が税金を上げるための理屈を作り、権力の座につけばその差配が可能となる。本当に必要なのは、自分のために税金を使わない政治家ではあるが、仮に政治家が潔癖であっても回りに税金に集る多くの人たちが群れる。この構造については、右も左も関係ない。いずれもが、最終的にはそれを目指している。楽にお金を手に入れる構造を手に入れることである。

 

 天下りが強い批判を受けていたのは少し昔の話ではあるが、薄給で過酷な仕事をする官僚にとってはそれがないとやっていけない、なんて話もよく聞いた。もちろん、最初から30年以上も先の天下りを期待して職に就くわけではない。官僚(特に霞が関勤務)は生半可な覚悟では勤め上げられないほどの激務である。その上で過酷な出世レースを勝ち残ったからこそ、その過程で得た情報や人脈に大きな価値がある(もちろん守秘義務は存在する)からこそ、天下りという対価に結び付く。だが、本当に優秀な人材は天下りではなく、民間から請われて新たな職につくケースもある。もちろんそれ以上の数の、民間が見向きもしない人もいる。

 かつて問題とされたのは、業界を監督する官庁が組織として再就職のあっせんを行っていたことが問題とされた。今でも、関連団体への再就職の話はよく聞く。直接の天下りが難しくなったため、2年の期間を関連団体等で過ごし、その後に天下りという話もある。企業としても、官公庁とのパイプがあることは決して不味いものではない。その上で有能な人物であれば喉から手が出るほど欲しいというケースもあるだろう。

 芸能界におけるセット販売のように、業界に押しつけてきたからこそ大きな問題になった。もちろん今でも、高級官僚が常にその席を占める外郭団体はあるが、その量はかなり減ってきている様に思う。世の中ではあまり理解されないかも知れないが、官僚の中でも優秀な人材は本当に優秀で、民間でも十分にのし上がれる様な人も数多くいる(同時に無理な人も同じ以上存在する)。

 

 さて、私が最も問題と考えているのは税金にたかる存在である。官僚がつくる外郭団体もそうだし、ある意味では同じ様な集金システムを持つNHKもさして変わらない。だがそれ以外にも数多くの税金にたかる存在が世の中には跋扈している。それと同じ以上に善良な団体や人もいるが、例えばNPO関係やある種の業界団体などは、システム的に税金からお金を得て勢力を維持していたりする。

 かつて、ある都道府県の会議で議論したことがあるが、目的を終えたNPOなどが常に目的を変更しながら団体を維持したりしており、顔が利くから公的資金を容易に集めるという問題が話題に出た。当初の目的は崇高であったかも知れないが、組織維持のために仕事を作り資金を集めるとすれば、本末転倒である。

 この前の愛知トリエンナーレでも、そうした集まりの存在が垣間見えた。確かに芸術はお金儲けには向かない。だからこそ公的資金を投入して人材育成という意見にも一理は在ろう。だが、社会的に求められない存在を税金で生き延びさせる意味はそれほど大きくはない。特に伝統文化など保存が社会的に合意されているのであればともかくである。

 

 税金は打ち出の小槌ではない。先に触れた様に、社会の中でお金を稼ぐと言うことは本当に難しい。だからこそ、税金による資金調達をする団体や個人には、それと同様以上の成果や結果、あるいは価値を証明してもらいたい。

 まあ、どこの国の政治闘争も似た様な構図にある。結局はシンパを税金により養うという形が連なっている。これは右や左、保守やリベラルという勢力や政治思潮とは何の関係もない。韓国などはその極端な例ではあるが、最終的には税金という湧き出す泉の管理人を誰が行うのかという問題に帰着するのだから。

 

 政治的な安定は社会不安を和らげてくれるが、同時に癒着や利益誘導が拡大する過程でもある。自民党政権、安倍政権の長期化がめざましいが、それが躓くとすれば税金という甘い蜜にたかる人がどれだけ暴かれるかよるだろう。

 まあ、朝日新聞などが主張する疑惑では全く足りないが、そのあたりについては十分に見ていきたい。

自分らしくと自分が全て

 個性を重視した教育をしようという社会的な声が広がったのは、いつ頃だったのだろうか。日本人は没個性的だと言われるが、決して没個性的ではないと私は思う。自己主張が少ないためにそのように感じられるが、本当に没個性的な国家がここまで多様な文化を広げられるはずはない。世界的に見ても、日本ほど小さな範囲で多様な文化を軋轢無く広げられている国は存在しない。

 もちろん、子供達の個性を潰してしまう様な教育がよいと訳もないが、個性重視を掲げたゆとり教育が巻き戻しているのは、個性を育むにしても基礎的な教養は何より重要であり、更に言えば自分の生き方根幹を定めることによって、人の個性は広がりを見せていくのである。それを曖昧にして何でもやろうと進める教育は、必ずしも個性を育てはしない。

 

 さて、教区の在り方と似た感じのモノとして「自分らしさ」がある。多くの場合には起業によるマーケティングの一環として、あるいは雑誌社などが流行を作り出す戦略として作り出される言葉と私は理解している。そもそも放っておいても自分自身は自分でしかない。自分らしくとは、自分自身を抑圧しなければならない状況からの解放を意味するが、その程度についてはこうしたキャンペーンは告げることはない。人は社会に生きており、全てが自分の思い通りになることはない。無論金持ちなれば出来ることが増え、お金がなければ欲望が募ると言うことはあるかも知れない。だが、自己責任論を言うつもりはないがその状況にあるのも自分の選択や、スタート時点で置かれていた自分の境遇であり、ある意味においてそれも自分らしい状況でもある。

 だから自分らしいとか、自主性とか言う言葉は、ある程度の範囲までは個性の発揮と見なして悪くないが、度を超した瞬間に社会的な不協和音に変わる。個性的かも知れないが付き合いたくない人はいくらでもいるように、社会的な範疇では自分らしすぎると生きていくのが難しくなる。一方で、芸術家などはその突き抜けた存在感が意味を持つこともある。ひととはおおきくちがうからこそ異彩を放ち、その生き方やその作品がアートになることは間違いなく存在する。だが、同様に異彩を放ちながらも誰にも知られずに埋もれていく人がそれ以上に多いことも知っておくと良いだろう。人と違うと言うだけで、新たな社会的価値を獲得することは出来ない。

 

 こうしたことは国家においても言える。現在、民族派が国家の中枢を占め、日本やアメリカに喧嘩を売り始めている韓国などは、まさに「自分らしくあろう」とし過ぎていることから孤立化への道を走っている。実は、過激派や原理主義者達はそうしたモノを極めた存在であり、言い方は悪いが韓国はその道を喜んで選択している様に見える。他者からの賞賛は、孤立ではなく協調により得られるのだが、その当たりが理解出来ていないのは、認識によるプライオリティが私たちと異なるからであろう。

 それは、「自分らしく」の範疇を超えて「自分が全て」と言い切った方がよい様な状況にある。「自分がよいと思うことを他者が認めないのはおかしい」といった独りよがりの考え方は、一般社会でもよく見られる。自分らしくが自分の心の中でだけ成立している時にはよいが、自分がよいと思っているモノを人に勧め始め、さらにはそれとは異なる考えを持つ人を攻撃し始めると、その存在はもはや社会的な害悪といえる。もちろん個別のモノや生き方の良い悪いに関する議論は否定しないが、自分らしさを極めた人や極めようとしている人は得てして攻撃的である。自分らしさを社会に認めてもらいたいからではないだろうかと想像している。そもそも自分らしさを人に認めてもらう必要はあるのだろうか。繰り返すが、自分らしさはある種孤立への道である。だからこそ、多くの人は孤立しない範囲で折り合いを付け、その中で自分なりの個性を発揮するのが一般的なのだ。

 

 こうした自分らしさを主張する多くの人は、社会的に認められたいという願望が非常に強いのではないかと感じている。その方法論として自分らしさを誇張する。だが集団から異質な存在になった存在を、持ち上げる集団はそう多くはない。それを通常は宗教と呼ぶ。そして認められない人たちが集まり、カルト的な行動を始める。

 生物としては異質な存在がいることは、持続可能性の観点で重要ではあるだろう。また、表現や言論の自由は認められるべきだと私も思う。日本は中国(政府の圧力による統制)や韓国(民族による同調圧力)と違いその自由が保障されている分、まだ将来性がある。

 ある大学教授(東大とアメリカの大学で教えた)が書いていた本によれば、日本人の大学生の方が個性的であるという。その理由は、試験のみで入学が決まるためとされる。ステレオタイプな優秀さ(ボランティアや活動)を求めた結果、確かに優秀だが同じ様な考え方や行動の顔ぶれが集まるという訳だ。そう簡単に言い切ることはできないだろうが、自分らしくあることは決して悪くない。だが、それは主張する必要はどこにもないと言うことではないか。

ライジングサンフォビア

 東京オリンピックに対する韓国の嫌がらせが広がっている。パラリンピックメダルデザインへのクレームから、旭日旗使用についてまで。だが、IPC会長はこのクレームを全く受け付けてはいない(東京パラメダル、見直さず=旭日旗の懸念は「大会と無関係」-IPC会長:時事ドットコム)。これ以外には放射能問題(韓国政府「福島汚染水に積極的対応」…新たなカードを切り出した : 政治•社会 : hankyoreh japan)を持ち出しているが、この点についても韓国に追随する世界的な反応はない。というのも、メディアが汚染水と呼んでいるトリチウム水は世界中が海に排出している。クレームをつけている当の韓国すら大量に排出している(【GEPR】トリチウムの処理は韓国に学べ – アゴラ)のだから、これを問題にしても結論から言えば韓国に勝ち目はない。

 ただし、貯蔵されているのはそのまま放出可能なトリチウム水なのかについては、すべてがそうという訳ではないので(はたして現状の原発処理水は希釈して放出可能なのか検証 - 木走日記)、この問題を発信する時には注意が必要である。再度除去することを前提とした放出なら大丈夫と認識しておいたほうが良い。ただ、日本が貯蔵している汚染水が他国と根本的に違うという主張や、科学的根拠に基づかない放射能汚染を理由としたクレームには、嫌がらせ以上の効果はあり得ない。

 

 そもそも、旭日旗問題(旭日旗 - Wikipedia)についても放射能問題についても、元々は日本に対する嫌がらせ的な運動が拡大したものであり、それを踏まえていれば韓国側としてもっと上手い使い方があるはずなのだ。だからこそ、旭日旗問題に関して朝日新聞の社旗(朝日新聞 社旗 - Google 検索)には一切クレームをつけていない。このように、都合の良いところとそうでないところの使い分けが各所でなされている。そんな手段であったはずにも関わらず、いつの間にか方便を自らが信じ込み、挙句の果てに真剣に運動に広げてしまい、さらには韓国政府までが同調する状況に至ったのが今である。不思議なことに、韓国が持ち出す歴史的証拠が映画だったり、説明や歴史的経緯を無視した誤用であったりするのは、ウォッチャーの人たちならよく知っているであろう。

 そもそも旭日旗問題も、厳格な旭日旗(とはいえ、いくつかのパターンがあるが)に絞って運動を展開すればまだ同調してくれる人も多かったかもしれない。だが、韓国は旭日旗そのものだけではなく、放射光デザインのすべてに喧嘩を売っている。マケドニアの国旗(マケドニア国旗 - Google 検索)やユニオンジャックイギリスの国旗 - Wikipedia)など、放射状の基準に照らし合わせると韓国人が許容できないデザインは世界に溢れている。

 一部日本人が、相手が嫌がるものを無理に掲げるのは良くないと主張している(ひろゆき「いつも旭日旗を持ち歩いてるわけでもないのにわざと東京オリンピックに持っていくのは悪意」 : はちま起稿)。だが、オリンピックだからこそ国を象徴する旗を用いて応援するのだと思うが、どうだろうか。私は、この際だから皆が大漁旗を持っていけばよいと思ったりもしている。韓国がこれにまで文句をつけるようならば、さすがにどこの支持も受けられないであろう。そして、世界中で五月雨式につけているクレームに歯止めが打たれることになる。

 

 しかし、そもそも旭日旗を韓国人が問題視し始めたのは、2011年のアジアカップの日韓戦と言われている(「旭日旗」問題の契機はサッカー・アジア杯 奥薗静岡県立大准教授 - 産経ニュース)。その証拠は各所に上がっており(韓国人が旭日旗で騒ぎ出したのは2012年からということがよくわかるデータ|カイカイch - 日韓交流掲示板サイト)、それまでは韓国人も普通に放射状の意匠を使ってきた。2010年に韓国で開催されたG20のマークにも放射状のデザインが使われている(2010 G20 マーク - Google 検索)し、PSYの江南スタイルのグッズにも存在する(江南スタイル グッズ - Google 検索)。ただ、2010年以前にも韓国のマスコミで旭日旗デザインが叩かれた例はあるようだ(韓国は後進国ですからねえ | こりあうぉっちんぐ)。

 それでも、今ほどの関心もなく何人もの韓国芸能人が放射状のデザインがなされた服を着てきたし、今も世界中で数多くの人にクールだと親しまれている。旭日旗そのものに限定しても難しいのに放射状にまで広げるなんて、標準的な意匠を禁止することなどそもそもできやしない。アメリアのメディアでも韓国が政治的な理由で用いていることにも触れ始めた(米FOXニュース「韓国の旭日旗に対する怒りは2011年から拡がり、反日ナショナリズムに火を点けるためのものとしてきた」と指摘……どうやら欧米マスコミもキ・ソンヨンの虚言を理解してきた模様: 楽韓Web)。

 

 このように、一種の旭日旗恐怖症(ライジングサンフォビア)とも呼べる状況は、韓国人の心の中に第二次世界大戦後から密やかに燻っていたかもしれないが、本格的に表面化したのは2012年頃からの非常に新しい症状である。逆に言えば、韓国人の有する「恨」を表出できる象徴としてメディア等により祭り上げられたものだと見て取れる。仮にそうだとすると、旭日旗が規制されても再び新たな代償が必要になる。ターゲットに何が選ばれるかを想像するのは困難だが、ここでの譲歩は新しい旭日旗を生み出す源泉となるだろう。

 少なくとも、戦後生まれの韓国人が旭日旗を嫌悪する理由は、戦後の教育でしか考えられない。その刷り込まれた知識により、物事を嫌悪・排斥できること自体に私は興味を抱いている。少し話がそれてしまうが、生理的嫌悪感の代表として語られるトライポフォビア(トライポフォビア - Wikipedia)のことが頭をよぎった。蓮コラ蓮コラ - Google 検索)としても知られる生理的な嫌悪感を抱くようになるシステムは、人間である限りなかなか回避できないものである。同じような生理的な反応は、果たしてどのような症名をつけられるのであろうか。