Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

真面目にこつこつ

 多くの政治家たちはこう言う、「真面目に働いてきた人が幸せに案れる社会にしたい」と。多くの母親は子供に伝える、「真面目に頑張っていれば、いつ川報われるのだ」と。先生は生徒達に教える、「真面目に努力することが最も重要なのだ」と。
 あたかも、真面目であることは社会において評価されるスタンダードの地位にあるような按配だ。しかし、翻って考えてみると世の中で評価を受ける人は真面目な人が多いのだろうか?私には一部の目立つ人ばかりに目が向いてしまうためか、真面目な人が社会的に高い評価を受けているようには思えない。むしろ「真面目だけどアイデアがない」だとか、「真面目すぎて面白くない」などとネガティブな声すら聞こえてくる。
 だからと言って不真面目がよいかと問われれば、私も「それは違う」と答えるだろう。「真面目」だけでは不足するのだと言うことが重要なことだと思うのだ。逆に言えば、真面目の上に積み上げるべき何かを持っていれば、不真面目でも真面目である以上に評価され成功するということでもある。

 その上澄みの何かを才能と言ってしまうのは簡単なことではあるが、私は必ずしもそれを才能とは思わない。むしろ、肝腎を見抜く力であると感じている。物事全体を構成する要素の内でもっとも主要な部分をいち早く理解し、バランスを崩さないように配慮しながらそこに注力していく。これを行うことにより、より短い時間で効果的な結果を得ることができる。
 しかし、世の中の多くの人は得てしてその全体を上手く見抜けず、または注力するポイントを間違えてしまう。いや、全体を把握するという努力を惜しみ(あるいは理解するのを待ちきれず)身近なところから手を付けてしまう。手を付けながらも全体に目配せをして構成理解をすればよいのだが、目の前のことに集中しすぎて配慮が至らない。

 若くして神童などと呼ばれる人たちは、こうしたモノの本質を見抜く力をおそらく最初から感覚として理解しているのだと思う。それ故に、若い頃は他の人との比較において大きな努力を必要とせず易々と結果を残すことができることもあるだろう。場合によっては、自らの力を過信しすぎてその後の努力を怠り大人になれば「ただの人」という状況になってしまうが、これはその見抜く能力も成長していかなければならないことを示している。あるいは精進していなければ錆び付いてしまうのかも知れない。
 逆に言えば、努力によりこの能力を高めることができるということでもあるだろう。故に、上澄みの見抜く力を才能と呼ぶのには私は少し抵抗を感じている。そして、真面目にこつこつと努力を続けることによりこれを手に入れられることがあるかもしれない。

 ただ、この本質を見抜く能力は真面目に努力繰り返したから常に身に纏えるというものでは無い。むしろ、真面目に加えて真剣に悩み考え、そして挑戦し続けた結果得られるものなのだと思う。だとすれば、重要なことは真面目であることではない。逃げずに真摯に向き合い、そして自分の力を超える範囲にまで果敢に挑戦していく度胸や胆力がそれではないだろうか。
 もちろんそのベースとして真面目であることは求められるのだろうが、逆に言えば真面目でなくともそれを得る可能性は少なくない。以前にもシニシズムについて書いた時(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20120604/1338735658)に似たようなことに触れた。

 少し前より教育界で個性重視の教育が推し進められようとした。結果的にそれは「ゆとり教育」という形に変質してしまい今では姿を消そうとしているのだが、私はそこで教えられるべき事は個性ではなく知恵だと思っている。与えられた条件からもっとも適切な方法を導き出し、良い結果に至る。これは、勉強方法でも普段の生活においても、あるいは部活動などでも全てに通じるスタイルである。
 もちろん、社会の叡智を集めてもわからないことがいくらでもあるのだから、全てにおいて本質を見抜くことなどできるはずもない。だから、私達は真面目であることを崇高とするのではなく、知恵を付けることをより良いことだと認識すべきなのではないだろうか。
 残念ながら、知恵は悪い方向にも利用できる。最近では訳の変わらない名前になってしまったが、昔の名前で言えば「オレオレ詐欺」がある。警戒してしまう人ですら引っかかってしまうこうした詐欺にも様々な知恵が悪用されている。

 真面目が保護され礼賛される理由に一つには、真面目な人は善良であるというステレオタイプな同一視が存在するのだと思う。善良な人々は守られるべきだという意味合いが、よりわかりやすくするために「真面目に働く人が幸せになれるように」という言葉となって社会を闊歩する。
 私は世の中の人が全て善良になれば素晴らしい社会が来るとは考えない。それよりはむしろ、様々な種類の人はいても良いが、その振れ幅を縮めていくことが良いと認識できる社会を生み出す一つの方法だと思う。かつて日本が歩んできた総中流化という道は、ある意味間違っていなかったと考えている。
 善良であることは、社会をバランス良く維持する上で不可欠な要素ではあるが、それが必ずしも最善ではない。善良でありながら、多彩な能力を発揮できることが重要なのだ。

 善良だが知恵が劣る人を社会は保護すべきかという問いは非常に難しい。今の社会はそれを保護することは当然のことだという前提に立って物事が語られる。私も切り捨てるべきだと言うつもりは全くない。ただ社会が発するメッセージとしては、善良だが社会に保護される人を増加させるよりは、善良でありかつ自らの知恵で困難を切り開いていける人を増加させることが重要なのだと思う。
 それを考える時に、真面目にこつこつという言葉はこれから成長する人たちへのメッセージとして、実は大切な要素を覆い隠してしまう問題点を秘めているのではないかと考えてしまうのだ。