Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

たかが受験、されど受験

春は別れの季節であり出会いの季節でもあるが、その前には受験という試練をくぐり抜けなければならない人もいる。今の日本では、かつての日本や現代の中国や韓国ほどの苛烈な受験戦争は無くなった感もあるが、それでも決して楽ではない関門としてそれは立ちはだかる。人によっては絶望的なそれをくぐり抜けた歓喜があったり、あるいは些細なミスにより望みを叶えられなかったりと悲喜こもごもが錯綜するだろう。あたかも、人生劇場の一部として悲哀や歓喜をメディアは取り上げるかも知れないが、私はそこで語られるほど高い山ではないと思う。
仮に一歩引いて俯瞰的に眺めたならば、受験という一時の出来事を人生の全てのごとく捉えるのは、全く馬鹿馬鹿しいことと考えることもできるのだろうが、そうは言えども当事者にとっては容易に割り切り納得できることでもないだろう。少なくとも自己の努力の成果として位置づけていれば、それを軽く扱うことなど許せはしない。真面目に取り組んだ経緯を馬鹿にされるほど、自己を否定されたような気になるからである。自分自身を大切にすればするほど、自己の足跡を矮小化などしたくもないし、されたくもない。

それでも、やはり人生は長い。受験というイベントは、数多く存在する人生のトピックの一つに過ぎず、その価値も人生において最高のものでは無い。考えても見て欲しい。高校や大学に入学することが人生の最終目標であるのでは寂しすぎるではないか。あくまで受験というエポックは人生をより楽しむための過程であり手段・道具である。
良い道具を手にすればその時点での物事を有利に運べるのはその通りだが、それは永遠に約束されたアドバンテージではない。次のステップでも形こそ違えど同種の障壁が待ち構える。人生とは、そうした障壁を乗り越えていくことで積み重ねられる。だから、受験というイベントは成功が意味を持つのではなく、そこに至る努力が最も重要になる。
努力が不足していたなら、仮に受験をクリアしたとしてもその後の人生でより大きな障壁に跳ね返されるであろうし、逆に努力の甲斐無く失敗したとしてもその経験は別の機会に必ず生きる。

何にしても上手く行くことが短期的には素晴らしいことではあるが、上手く行かなかったことも経験としては決して小さなものでは無い。残念ながら受験というイベントは比較的若い時代に迎えることから、そこまでの割り切りが容易にできるとは思わない。しかし、受験において最も重要なのは最終的な結果だけではなくそれ以上にそこに向かう過程が問題なのだ。
受験テクニックが取りざたされることも多いが、手に入れた受験テクニックはその場限りのものであり、自分で生み出したテクニックはその後の人生でも形を変えて役立てる。その後の人生において役立つことなどないと思った勉強も、気づけば人付き合いの中で予想以上に意味を持つことにもそのうち気づく。
人生において無駄なことは何一つ無く、悲しみや苦しみも前向きに生きることで必ず糧とすることができる。だとすれば、成功するにしても失敗するにしても受験という通過点は私達にそれを気づかせてくれる良い機会となるのだ。
世の中では受験戦争が悪いという声も存在する。確かに過度のものは却って人生を無駄にすることも想定できなくはないが、一時期それに没頭することのメリットも決して小さくない。だとすれば、成功することに過度に傲らず失敗しても悲嘆に囚われることもなく、全てを良い経験として利用することが最も望ましい。
少なくとも、子供のこの大切な機会を親が台無しにすることがないように望みたいものである。

今週のお題「受験」