Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

歯止めと決壊

 ここのところ働かない(働けない)人への風当たりが強くなるようなニュースが跋扈している。確かに弱肉強食の社会では、「働かざる者食うべからず」という原則があるのは事実だろう。だが、文明と言うのはそうした過酷な状況を克服すべく発展し、その対処を考えるのも一つの在り様である。

 空虚な理想論を私は支持しないが、それと同じくらいに安易な自己責任論も戒めていきたいと思うのである。すぐに結果には結びつかなくとも、何をすべきかについて考え続けたいと思う。思考のみでは何の力も持たないことだが、多くの人がそれについて考えることは社会が将来動くための潜在能力を向上させると信じている。

 

 さて、私たちは子供時代から道徳や倫理を教えられて育つ。それは常識という縛りの中で教わることもあれば、教育という形から身に着けることもある。そして、人としての常識と言うか、自分でしなければならない限界(ボーダー)をなんとなく知る。どこまで努力すべきか、どこまで耐えるべきか。

 現代社会では建前上奴隷的な身分は存在しないことになっているのため、多くの努力をし、多くの苦難に耐えることができれば一定レベルの社会的成功(平均を成功と呼ぶのなら)に近づく可能性は高い。もちろん、そのために様々な知恵を働かせてうまく立ち回ることも必要だが、頑張れば報われるというのは一面で真実である。少なくとも標準的な地位は手に入れられる。

 だが、こうした努力や忍耐について人によって耐えうる閾値が異なる。どんな困難も気軽に耐えられる人もいれば、小さな困難ですら挫けてしまう人もいる。そして、最大のポイントは一度挫けてしまうと、同じレベルの限界値を設定できなくなってしまうことであろう。形の崩れた豆腐が再び綺麗にならないように、一度限界を超えた心は容易に同じ抵抗力を取り戻さない。あるいは、取り戻そうとしても過去の痛みがそれを拒絶する。

 

 しかし、こうした挫折から復活する人も少なからずいる。何度失敗しても繰り返しチャレンジできる人もいる。どうして社会に背を向けてしまった人、引き籠りと位置づけられるような人には、それができなくなってしまうのか。

 明確な病気や精神疾患がある人なら、社会制度として障碍者に対する援助がすでに用意されている。だが、そこに至らない様な人は非常に多い。見た目は健康体で、普通のことはストレスがかからなければ可能。だが、一度挫けてしまった心は社会に対して再び抵抗することを拒絶する。仕事だけができない。そんな人がごまんといる。

 仮に社会復帰を目指しても、結局適応できず仕事を止めざるを得なくなる。実際、心が逃げようとすると、それが体の不調となって現れる。人は感情の動物だ。しかし、病院で検査しても明確な不具合が見つからない。体そのものの不調ではなく心因性の不調だからである。

 

 心が失ってしまった抵抗力、防衛線。それを取り戻すことが何より重要なのだが、取り戻そうと思ってもそれ自体を深層心理が拒絶してしまう。理性では働かなければならないと思うのに、体は無意識が支配してそれに抵抗する。

 親や周囲から働けと言われるほどに、理性と深層心理の乖離が大きな葛藤を引き起こす。そして、悩みは深くなっていく。

 

 一方で、当初の原因となる事件が何らかの形であり、それはいじめであったりブラックな会社での扱いであったりもする。だが、多くの場合には本人の社会的なコミュニケーション能力の不足であったりもする。だからこそ、社会復帰自体が容易ではことにもつながる。プライドが非常に高かったり、相手のことを考えられなかったり、集団での作業や業務を上手くこなせなかったり。

 そして、その客観的事実を本人が認められないことも少なくない。だから余計に周囲の反応が冷たくなる。いじめられている人にも原因があると指摘されることがあるが、いじめ自体はいじめた側に問題があるのは絶対だ。だが、それでも状況を引き起こすきっかけについて言えばいじめられる側の心無い言葉や行動が引き金を引いているケースもあるだろう。責任をいじめられる側に負わすつもりはないが、その原因を作り出した状況が無くならなければ、感情が渦巻く人間社会では同様のことはいくらでも起こり得る。それは寛容さをどれだけ訴えかけたとしても。

 

 こうした心のケアについては、それ専門のトレーニングが必要なのではないかと考えている。時には優しいケアやサポートだけではなく、再び人生の目標を持ち、そのために自分を高めていくための努力をする場所。努力する場所や、コミュニケーション能力を再構築する機会。私たちが子供のころ築き上げたものを再度獲得し直す、リセットの期間である。

 だから、優しく手当すればそれで良いというものではなく、隠してしまえば良いというものでもない。言い方が悪いが、社会にうまく適合できなかった部分を適合可能になるようにトレーニングをする仕組み。

 

 労働者不足が深刻な日本で、100万人近い人たちが引き籠っているとすれば、それを活用するための方策は、対処療法ではなく予防療法ではないかと思うのだ。大人になってから、子供時代と同じことをもう一度通過することは、本人にとっても周囲から見ても我慢できないことかもしれない。多くの人たちはプライドの高さも挫折に関連しているとすれば、なおさらだろう。

 だが、それを仕組みとして国や社会が位置付けることができれば、偏見も多少は軽減できよう。そろそろ、そういう仕組みを考える時代が来たのかもしれない。成功すると断言できるほどの自信がある訳ではないが、彼らは少子高齢化時代における日本の隠し財産になり得るかもしれないのだから。