Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

敗戦のファンタジー化

既に戦後70年弱を経過した。歴史上の事実としては重要なものではあるが、すでにリアリティを持ってそれを語れる人が極端に減少している。戦争の悲惨さを伝える行為は重要であり、そのために努力する行為は価値があると思うが、過去の戦争の責任を現代に生きる人たちが負う必要性はない。それは歴史的知識として得ていればいいものであって、感情的にそれを刻み込む行為にはどれほどの価値があるのだろうか。

今最も大切なことは、新たな戦争を引き起こさないようにする努力であって、当事者ではない過去の戦争の責任を負うことではない。むしろ現代人が負うべき責任は、この先の戦争を回避するという点において最大限努力すべきことである。
ただ、この戦争を回避すると言うことは9条を唱えて非暴力を訴えて言えれば良いというものは決してない。基本的に戦争には相手が必要であり、その相手との関係を戦争が行われないように調整することが最も重要なのだ。もちろんその中では対話が最も重要ではあるが、それだけで世界が平和に納まるはずもなく、場合によっては恫喝を含めたシビアなやりとりも必要となる。なぜそんなことが必要なのかと言えば、それは各国の歴史的環境的な土台が異なることから、同じ問題に直面しても取る対応が異なるという面がある。
戦争を日本人が既にリアリティを持って感じられなくなりつつあるのは事実であろうが、北朝鮮と未だ休戦中の韓国ですら感覚的なレベルで言えば一部の当事者を除き日本とどれほども変わりはしない。ただ、戦争から遠い日本の方がそれを忌避する意識が強く、より近い韓国の方が戦争に対する敷居が日本よりもずいぶん低く感じる。日本の平和主義者の言説を考えるならば戦争当事者ほどそれを忌避してしかるべきだと思うのだが、世界の常識は戦争から離れたものほどそれを遠ざけようとするのだ。
現代社会においては、戦争は意図して起こすものではなく避けられずに発生してしまうものとして認識されているからこそ、普段から戦争を身近に感じている者ほどそこへの抵抗感が小さくなるのであろう。

要するに、現代において戦争とは覚悟であって目的でも手段でもない。最悪の場合にはそれを辞さない覚悟があるからこそ、ギリギリまで戦争回避の努力が可能となるのであって、最初からその選択肢を無くして交渉する事は交渉の余地を自ら狭めていることになる。
太平洋戦争の敗戦は、当時の日本人のメンタリティに大きな挫折感などをもたらしただろうが、その心理が現代人にまで受け継がれているわけではない。平和を主張すること自体は非常に重要なことではあるが、平和は結果であってそれを手段とすることは必ずしも実態にそぐわない。一部の平和教育を見る時、平和を手段として一定の主義主張を伝えようとしているように感じられる。平和を目的として悪いことはないのだが、そこに至る道筋には幾通りもの可能性があることは認めなくてはならない。ところが型にはまった平和教育は特定の道筋を通る平和しか認めていない。そこに矛盾を感じる人が多いからこそ、様々な疑問が呈されているのではないだろうか。
その特定の思想は、戦争を自ら起こさないことを主体に形成されている。もちろんその主旨は理解できるし重要でもある。ただ、そこには戦争を仕掛けられるという視点は十分に組み込まれていない。多くの場合は、仕掛けられる前に話し合いで対処するという漠然としたイメージ論しか語られないである。もちろん、戦争を回避すべく交渉はあらゆる手を尽くして行わなければならないのは当然のことだ。ただ、それでも回避できない事があるからこそ戦争とは発生してしまうのではないのか。そしてだからこそ覚悟がないより重要になるのだと思うのだ。

世界経済が高度に結びついている現代社会においては、戦争がプラスになる国家などほとんど存在しない。加えて言えば、今の日本人で本当に戦争を期待する者などどれほどいようか。少なくとも戦後の日本という国家は世界の何処の国よりも平和外交を続けてきたではないか。
平和が崇高なことは誰もが知っている。ただ、その目的は日本においては数十年間実現されてきている。そして日本人の心の中には今の状態を続けたいという気持ちは確実に根付いているであろう。
ただ、過去の手法は今後の平和を追求する方法論として未来を縛ってはいけない。一部のメディアや勢力が繰り返し日本の戦争責任など用いて現代日本人を戒めようとするが、その行為が現代の日本人を最も信用していない行為だと言うことはよくわかる。
それが韓国や中国が言うのであればまだ理解できなくはないが、同じ日本国内に住む同じ日本人が未だに現代の日本人の心情を理解できていないというのはむしろ滑稽なくらいではあるが、それは敗戦の結果という過去の事実を頭の中で膨らませすぎた結果なのだろうと思う。

私は、現代の日本人の感性と平和を希求する心理を信じても良いのではないかと強く思う。