Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

ジャーナリズムの質

 現代は情報が大量に溢れている時代だと言われる。私たちは少ない情報を必死になって得るための努力ではなく、これでもかと押し寄せてくる情報の大波を如何にかわすかが問題となっていると言ってすら良い。もちろん無料で入手できる情報には大した価値はなく、相変わらず本当に意味ある情報には対価や入手の努力が必要なのは一般論として正しい。だが、その相対的な価値の差は過去に比べると大きく縮小している。これは情報を求める人の数が激増したことと、扱う情報の量が格段に大きくなったことが考えられる。そして結果として、相対的な価値の格差縮小につながったと考えるのが正しいだろう。情報提供側とすれば、大量の顧客に情報を流せば相応の利益を得ることができる。

 

 情報の発信側としては、過去から様々な意味での識者と呼ばれる人やジャーナリストといった個人と、それを基に発信を司るメディアが存在する。特に、メディアが巨大化する中でジャーナリストもメディアの中に取り込まれていった。あるいは、情報産業が拡大する中で新たにジャーナリストが生み出されていった。

 ただ、ジャーナリストは特定の専門家ではない。むしろ評論家的な立場で、最先端の情報や隠された情報を分析して公表する。分断された情報を繋ぎ合わせ、それを根拠に論を展開するのだが、そこに変なイデオロギーが加えられると報道がゆがめられる。そして、それ以上にステルスマーケティング的なポジショントークの入った情報が乱舞するようになると、一般人にはその報道を信じられなくなっていく。結果的に、メディアには属さない新たな評論家が、ネットという独自の舞台を使ってその地位を乗っ取り始めている。

 多くの人たちが、溢れる情報の嵐を乗り切るための指標として、メディアよりもそちらの方を信じ始めているのは間違いないだろう。

 

 そう言えば面白い情報が流れていた。オックスフォード大ロイタージャーナリズム研究所の「Digital News Report 2019」島田範正氏が解説している内容(朝日の信頼度、今年も全国紙で最低:ロイター研調査)である。ここで取り上げたいのは、朝日新聞の信頼度が相変わらず低いということよりも、「メディアは権力者や大企業の監視をし精査をしていると思うか」という設問についてジャーナリストの91%が同意したにもかかわらず、読者は17%しか同意していないという内容だ。この極端な認識の違いは世界の中でも最も乖離が大きい。というか、むしろ圧倒的なほどと言って良いかもしれない。ドイツのジャーナリストが36%しかそう認識していないことを見ると、日本のジャーナリストはかなり自信過剰ではないかと考えたくもなる。

 ここで言うジャーナリストは、おそらく古い意味でのジャーナリストであり、あたらなネットを用いた評論家たちを含んではいまい。仮に含まれていたとしても、そういう人たちはそこまで自信満々に答えないのではないかとすら思う。

 

 構図としての、情報の風上側にいるジャーナリストと情報の風下側にいる読者たち。ところがこの風上・風下という概念はもはや成立しなくなりつつある。ネット上でのほとんど意味のない多くの議論。5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)での便所の落書きの様な議論。しかし、そこで交わされる情報量はメディアの発信するものよりも圧倒的な量がある。ほとんどには意味のないものではあっても、その中に意味を持つ僅かの情報があり、それらは川における砂金ひろいのように集められていく。

 識者として有名になるには、まずメディアに属することが重要だった時代があった。週刊誌からテレビという流れ。いずれも組織メディアが差配できる場所。だが、今そこにネットという新たなものが生まれ、メディア側の統制は崩れつつある。テレビの視聴率は下がり続け、新聞の購読者数も減少の一途。

 要するに、情報メディアといった企業そのものが大きく変わらなければならない時期に来ているのは明らかである。そして、最初に行うべきことはメディア側の、あるいはジャーナリスト側の意識を変えることであろう。その変えるべき意識は、自分たちが国民の代表だという認識である。その言葉を聞いて、「そうではない」と答える国民が大部分だと思うが違うだろうか。

 「国民の代表」という言葉には多くの意味が内在されている。権力の監視についてもそうだが、同時に自分たちの報道が国民を動かせるという過剰なプライドがある。私はそこを最も変えるべきだと思う。第二次安倍政権になってから、反政府、反内閣キャンペーンをこれでもかと言うほどやっているメディアがあるが、それに国民は同調したのだろうか。果てには、同調しない国民の方がおかしいとまで書くケースも見られるが、それこそが国民を下に見た傲慢な態度であり、メディアが国民に見限られつつある原因でもある。

 

 経団連が新卒一括採用の廃止に言及するように、社会の構造は大きく変わりつつある。メディアも当然そのままではいられない。現状は、どんどんと新しいネットメディアを生み出し、更なる情報の海に陥れようとしている様にすら感じられる。もちろん、個別にはそんなことを考えてはいないだろうが、俯瞰的に見ればそれは情報の信頼性をますます低下させる行為だと思う。

 情報に接する人たちの感覚を失わせて、ブランドに引き寄せようとする流れ。これは既存メディアの価値を維持するための最も簡単な戦略ではあるが、情報産業の全体的な価値を喪失させるという意味において愚策である。少なくとも情報の価格はどんどんと下落していくだろう。

 昔から、本当に価値のある情報には高い価格が付けられてきた。それはメディアが流すものよりも、専門の情報機関、あるいは研究所レポートとして必要な場所に提供されてきた。メディアが扱っているのは、価値のある情報ではなく多くの人が何となく求める情報である。だが、その立ち位置はネットという場所に脅かされている。

 

 情報産業で働く人が増えすぎたことが、現在のメディア問題の最大の要点である。さて、それを質において差別化するような行動を誰が取れるのか。少なくとも、その点でネット上から輩出されるあたらな評論家の方がメディアを先んじている。