Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

人から制度へ

 人治制度と法治制度(法治国家 - Wikipedia)の違いは「悪法も法なり」という言葉が示すように、人治主義の危険性を受けて次善の策として法治により統制することの必要を考えていることからわかる。一方で、徳治制度と呼ばれる人治制度のバージョンアップ版とも見て取れる手法(中国の理想形)も存在し、これは形態としては独裁制に近いものの、理想的な指導者がいた場合にはおそらく法治制度より国が治まることをイメージしている。現在の中国共産党はまさにこれの集団体制版(現状は主席の独裁制が強化される方向にある)を公言しているが、実際は様々な報道に見られるような支配者と被支配者の二極化が進展する結果を招いている。そもそも、国の規模が小さければ一人の徳の高い人が納めることも可能かもしれないが、規模が多くくなるにつけて目が行き届かないことにより徳治主義は実現性が低下する。著名な小説である田中芳樹氏の「銀河英雄伝説銀河英雄伝説 - Wikipedia)」には、大きなテーマの一つとして悪い民主主義と良い独裁が対照的に描かれている。ベストを求めるとワーストに至ることがあるが、ベターを求めればワーストにまでは至らない。さらに言えば、どれだけ制度を充実させたとしてもそれはあくまで道具であり、使用する人により変化してしまう。性善説に立つか性悪説に立つか。さて、私たちは何を選択すべきなのか。

 この問題は集団の規模によっては影響を受ける。国家単位では確かに法や規則による公正性を追求する方がベターではあるが、この単位が小さくなるほどに人治制度的な部分が幅を利かせ始める。良い意味でも悪い意味でも。すなわち、私たちがどこに着目するかによって個人の能力に期待するか、制度により個人の能力を抑制するかが変わってくる。日本は、世界を見た時法治制度を比較的よく維持している体制だと個人的に理解しているが、リベラルを自称する人たちはそのことにはあまり触れない。

 制度により全てを規定できない私たちの社会は、小さな集団ほど個人の能力に期待する仕組みとなっている。中小企業は社長の能力やリーダーシップ、あるいは先見性に業績が大きく左右されるし、その成功者が雑誌などの記事を飾る。同様のことは自治体やそれに伴う様々な組織において言える。教育委員会もPTAも組織としては十分整備されてはいるが、組織が機能するかどうかはトップであったり、それを補佐する人たちに大きく左右される。組織としてのルールに従い何も変えない(これまでどおりの対応をする)ことも可能だが、社会変化により生じた問題を解決しようとすれば前例主義では覚束ない。

 

 以前にも何度か企業のトップの在り様について書いたことがあるが、創業期や再建期にはトップの強烈なリーダーシップが求められるが、安定期には合議制の組織体制の方が上手く経営できることがある。制度で運営をカバーできる範囲というのは、安定期における変化を目指さない時期であろう。それ以外は、場合によってはルールを超えるような判断を個人(リーダー)に期待するのが組織である。問題は、その個人の暴走を押しとどめるのもルールの役割であること。そして、この両者は常に葛藤する。

 物事を上手く進めようとすれば、優れたリーダーの下で組織が一丸となって動くことが最適である。効率的に事態に対応できる。だが、リーダーの真正性を保証する方法がないことが懸念である。カルロスゴーン氏は、強烈なリーダーシップで日産自動車を立て直した。非情とも言える手法が物議を醸しだしたが、それが出来なければ倒産していたとすれば、リーダーの強烈な個性は決してバカにできない。だが、一方でその後の行動は必ずしも良いモノではなかったのであろう。法律的な責任はともかく、リーダーが自己のために専横的に動いたという事実は、その暴走を止める機関が無かったことを意味している。

 社会は、制度等により規制されるルールと、自由に発想して新しいチャレンジを行う人の間で常に揺れ動くものなのだろうと思う。国、会社、団体、グループ、その様々な組織体の状況に応じて必要なリーダー像は異なる。リーダーに期待する指導力も変わってくる。そしてもう一つ、問題解決能力と個人的な倫理の両面が問われる。スーパーマンを期待することは難しすぎるが、結果として、現代社会が人に期待しているのは清らかさになりつつあるのかもしれない。だが、その清らかさは個人の能力を凌駕することはないのだが。