Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

共感を引き出す能力

 能力が高くてその上性格も良い。理想の上司と評価を受ける人はまさにそんな感じの人であろう。だが、「理想」という枕詞が付く様に、一般的に両者とも兼ね備えている人はそれほど多くはない。ほどほどに能力があり、ほどほどに良い性格の人は一定以上の割合で存在するが、ほどほどに良いというのは悪い面も散見されるということと同義である。
 さて、例えば極論として「能力は抜群に高いが性格は悪い」と「能力は低いが性格が非常に良い」といった事例の比較をしてみよう。例えば、私が友人としてどちらと付き合いたいかと考えると、普段会うだけであれば性格の良い友人を選びたいと思う。一方で、何か刺激的な遊びをするときには能力が高い友人の方が、より面白いことができそうな気もする。
 このあたりに関しては、自分の立ち位置がどのあたりにあるか(アクティブかポジティブか)によって少し異なってくる。もう一つは、趣味や趣向が合うかどうかもあるだろう。自分で自身の適切な評価を下すことは難しいが、TPO や相性というものは非常に大きなものとなってくる。だからあくまで一般論としてではあるが、両者を比較すれば自分がゆっくりと安息を取りたい時には、すなわち刺激を受けたくない時には性格の良い友人、そして何か非日常的な冒険を選択したい時には能力の高い友人を選ぶ。そして明確な意識や目的としての認識が小さい時には、自分と同質の性格を有する友人を選ぶのではないかと思う。

 類は友を呼ぶ。そんな言葉が世の中にはあるが、基本的に人は自分と同質性の高い人同士で近付きたがる。ただし、それは能力が高い者同士や性格が似ている者同士とは限らない。趣味の合う者同士というのもあるし、時には長い時間共に過ごしてきた(あたかも幼馴染のように)関係性が重要となることもあるだろう。
 それらはストレスを自分に与えない、または自分が許容するストレス範囲内での付き合いを選択するというものだと思う。意識が無ければもっともストレスが少なくなる者同士、意識した場合にはそのストレスが何らかの刺激や快楽と繋がる関係において許容される。
 もちろん、日常社会においては常に心地よい者同士で一緒にいられるわけではない。家庭でも、近所づきあいでも、学校でも、そして職場でも。私たちは自分と波長が十分合わない人たちとの関係性を常に模索し続けている。無能だが性格の良い人は基本的に刺激のない存在として、有能だが性格の悪い人間は刺激の強い存在として認識し、それが自分にとって心地よくなる場合に交流を図ることとなる。

 時には意識的に、自分と波長の合わない人を選択するようなケースもあるだろう。それが慈愛の心によるものなのか、あるいは自分への贖罪として働くものかはわからないが、自分に敢えてストレスをかけることを是とする人も確かにいるだろう。だが、大部分は無意識のうちにその時点での自分にとって楽な人間と付き合いたがる。
 そもそも能力と性格は対立概念ではない。両者を高いレベルで有する者もいれば、双方に欠ける者もある。両者を有するものには人は近いづいて行き、持たざる者からは人は基本的に遠ざかる。そう考えるのはたやすい。だが、現実を見ると能力についても性格に関しても単純に良い悪いでは表し切れない部分がある。先ほども書いてきたが、能力にしても性格にしても自分と近い存在の方がストレスになりにくいというのはあるだろう。共感性(シンパシー:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F)と呼べばいいのだろうが、このあたりの反応は概ね直感により導かれる。

 問題は、これらの直感は関係する二者において同様ではないということではないか。AとBが相手をどのように評価するか。単純に両者が等しく相手に対してシンパシーを感じれば対等な関係性が存在する。しかし、AがBに対して感じるそれと、BがAに対して感じるそれは大部分において一致しない。それは人の性格や能力は非常に多岐にわたる要因の集合体であることによる。
 相手の全てを共感することは特別な条件でもなければ有り得ず、我々は非常に多くの要因の中から重要度の高い要因における一致度、あるいは全体的な一致度を基に判断している。それは思考によるものではなく一瞬の直感により選ばれる。もちろん直感は何度も修正されながら構成されるので、常に一目ぼれした人を好きと思い続ける訳ではない。

 さて、最初に私は能力が高くて性格が良い人は理想的だと書いた。しかし、そういう相手と自分がストレスを受けずに付き合いきれるかと問われれば、真面目に考えるとなかなかに難しいのかもしれない。なぜなら、コンプレックスや自分との差を常に感じ続ける状態というのは、本来必ずしも自分にとって心地よいものではないからである。追いかける上ではよい存在でも、ずっと付き合う上では必ずしもそうでもないかもしれない。恋愛小説では王子様が自分をさらって行ってくれることを夢想するが、現実の自分が王子さまから声をかけられて本当に城に入ろうと思うだろうか。
 それでも理想の上司というものが評価されるのは何故か。快適さは、自分にとって楽である状況のみではなく、むしろ刺激を受けたいという自己成長的な要因があることは誰もが知っている。とすれば、理想の上司は自分自身がなりたい姿であり目標である。そこから刺激を受けることで自らの立ち位置を近付けようとする対象だ。
 その姿になった自分を夢想することには一定の快楽が伴うかもしれないが、現実の自分とのギャップを考える時には相応の不快さを感じることもあろう。あくまで夢として捉えている範囲において快適なのだ。このあたり最後は本人の認識の在り方次第ではあるが、ストレスを生み出すのはその状態を肯定的に捉えられるかどうかにかかっている。直感が大きく支配するからこそ、時に誤認が快適性を生み出してしまうこともある。

 ところでもう少し考えてみると、そもそも性格が良いとか能力が高いという評価そのものがその内部に別の意味を併せ持っていることに気づく。例えば能力が高いというのも、単純に事務処理能力が高いとかクリエイティビティが秀でているというだけとは限らない。判断の適切性も含めてではあるが、企業に所属する場合は組織としての調整能力が問われることも多い。
 それはすなわち、自らの能力や性格の異なる人に対する接し方の問題である。能力や知識の異なる人にも分かる言葉、分かる形で示すことができる。同様に、性格が良いというのも必要に応じて相手に合わせることができる、例えば固定された共感性ではなく適宜変動して共感性を呼び起こす能力。こう考えてみた時、能力と性格の一致点が見出せるような気もする。
 人によってはこうした力を姑息という人もいるかもしれない。だが、他人に合わせて時に厳しく時に優しく振る舞うのは組織を動かす時には当然必要となることである。それを押し付けがましく行うのではなく、自然かつスマートに行う力。それらは間違いなく求められている。

 私が示したこの力は、能力でもあり性格でもある。組織における能力は、局部的な成果を生み出すものではなく全体的な成果を生み出すための力。それ故に、時と場合そして相手に応じて変幻自在に対処できる。そんなコミュニケーションスキルと呼んでも良いだろう。それが本来持って生まれたものであれば性格と呼ばれ、努力の上に獲得したものなら能力と呼ばれる。そのような近くにいる存在に快適さ(時に安寧、時に成長)を与え得る能力。
 もっとも議論がループに入ってしまいかねないが、人とのコミュニケーションスキルがいくら高かろうが、それのみでは必ず社会的な評価を受ける訳ではないのも事実。業務処理能力や創造性が掛ける時には、単なる八方美人との誹りを受けることもあるだろう。要するに、あくまで社会を円滑に動かすための一つの力に過ぎないが、それでも個人の力で全てが決まらない状況下においては馬鹿にできない力ではないかと思う。

 私たちは能力が高いというと、知識の豊富さや弁舌の巧みさ、あるいは処理スピードの速さや想像力の高さなど様々な概念を思い浮かべることができる。それは確かに個々においては非常に優れた能力と言えるだろう。だが、現代社会において何らかの成果を上げようとする時、芸術や芸能の世界でもなければ個人のみの能力では十分な結果は望みづらい。また、全ての面で優れている人などまず見かけることはできない。それは天才と呼ばれるごく少数に冠せられる称号である。
 一方で日々の暮らしにおいては、能力の高さよりは人を落ち着かせる力の方が求められることも多い。人は刺激と安定の間を揺れ動きながらバランスを図ってる存在である。性格の良いと言われる人が好まれやすいのは、その安定した快適性を提供できるからだと思う。頭の良さや行動力よりは性格の良い方が良いと言われるケースがあるのも、社会におけるバランスを求める欲求が大きいからでもあろう。
 ただし、受動的な存在としてのそれは必ずしも社会的には肯定的に受け入れられるとは限らない。一般的には良い子と評価されても、いじめの対象となるのはまさに受動的な性格の良い子供が多かったりするものである。攻撃と防御の依存関係はあくまで歪なものである。すなわち能動的な能力であることが求められる。

 ありとあらゆる能力が高くなくとも、一つの分野において優れた能力を有しているとすれば、そこに周囲に対する共感を引き出す能力(この言葉が適切かどうかはもう少し考える必要ありだが)を重ねることで、多くの人はその価値を認めやすくなる。
 普段から、自分は能力が高いのに評価されないと感じる人はいるだろうが、おそらくそれは相手に共感される(あるいはさせる)能力が不足している。共感できない存在は多くの人に対してストレスになりやすい。逆に一定の受忍限度はあるものの、与えるストレスがポジティブに評価されれば問題となるどころか、それすらが誘因子になりうる。同じように話をしても、ある人は肯定されある人は否定される。
 共感は、刺激と安定の使い分けにより導かれる。それを上手く認識して使い分けられる能力が、人との関係性を良い方向に転がすための大きなポイントとなるのではないだろうか。