Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

地方分権を責任論から考える

私は基本的には現在よりも地方分権を推し進めた方が良いとは思っているが、ただ無制限の地方分権主義者ではない。国家統制的には中央集権システムの方が効率的なのは間違いないが、同じ体制が長く続けば何処の組織でも腐敗が広まったり事なかれ主義が横行する。また、既に一定の成熟を迎えた日本では国家成長の目的の拡散起こっており、それに対応するには中央集権方式は確かに馴染まない。民間のフランチャイズチェーンでもそうかもしれないが、成長期には同じサービスを提供することが望まれたとしても、飽和・安定期には個々の店ごとの対応や発想が必要となる。
日本という国家に地方分権が必要なのは、この国家の目的を見失っているという面が最も大きいのだろう。ただし、その惑いの時期が永遠に続くとも思わない。新しい日本社会構築の方向性が見えたならば、その時には地方分権よりも中央集権体制の方が望ましくなることもあろう。経済でも政治でもそうだが、一つの方法が永遠の真理などと言うことはありはしない。その時々の状況に応じて必要な政策を採っていきバランスを保つことこそが重要なのである。
上記の文脈で言うならば、現在は地方分権を進めた方が良いのではないかという時期に該当していると思う。いや、既にかなり前からそうであったがこれまで手をこまねいていたと考えた方が良い。むしろ、世界経済の混迷が酷くなるようであれば地方分権を進めない方が日本という国にとって意味があるという可能性もあると私は考える。

ただ、明治政府以降中央集権体制を取ってきた凝り固まった状態を一旦打破して、別の回答もあることを国民が認識するという意味では地方分権は進めるに値する。間違ってはいけないのは、地方分権が絶対の真理であるなどと勘違いしに事であろう。現在の環境下で必要だから行うのだ。
その上で、何処までの地方分権をすればよいのかというのが常に政治的・行政的に問題とされる。一般的には「お金」「権限」「人材」の3つと言われているが、私はそこに「責任」を加えなければならないと思っている。放っておいても付いてくるものではあるが、この責任論こそが地方分権の要であると考えているからこそである。
そして急速な地方分権は失敗する(あるいは多大な苦痛を伴う)のではないかと思っているのだが、それは現在の地方自治体がこの責任を負いきれる状況にないことにあるからだと考えている。その苦痛故に地方分権を道半ばで放り出すようなことになると、それこそが日本の政策の取りうる道を狭めてしまうことにもなりかねない。戦争のトラウマから抜け出せないマスコミ、バブルのトラウマから抜け出せない日銀と同じように、地方分権失敗のトラウマに永らく取り付かれてしまうことのなるであろう。

一つには制度面で責任を負えないという部分がある。良く言われるのは、上記にも示したように権限の委譲が不十分であるとか、資金が十分手当てされていないと言ったものであるが、それだけでなく地方分権により地方が地方の自己責任を負うとき、地方経済などについてどこまで選択肢を有しているかが問われる事になる。一応地方分権が進んでも経済については国の所掌で国が責任を負わなければならないが、それは国全体の景気低迷であって文献が進めば進むほど地域経済は地方が自分でカバーしなければならない。このパターンは失敗が見えつつあるユーロのパターンと似ているではないか。
地方は景気対策は打てても金融政策は国が行う。通貨の発行権も国家が担う。成長過程にあるときにはこうした事は問題にならないであろうが、低迷期には大いに問題となり得る事項である。果たして、ユーロの失敗を繰り返さないためには何が必要なのか、十分な制度設計に対する議論が必要であろう。
もう一つは、精神的・心理的な責任感だ。もちろん口では責任を負えると言うだろうが、そんなものは子供にだって言える。地方の議会や行政組織に霞ヶ関や永田町の良い面におけるレベルを期待するのは無理だとしても、せめてそれに準じるようなレベルには達してもらいたいが現状では全く心許ない。そもそも、十分なレベルの人(議員や公務員)が各地域にごろごろいるようでは日本という国は人材の宝庫と言えるのだが、そんなはずはなかろう。おそらく、一部には能力の高い人はいたとしても平均的には劣化型の霞ヶ関と永田町になると考えた方がよい。地域特性を重んじる事でそのマイナス面をカバーできるのであれば御の字ではあるが、個人的にはそれも期待薄だと思っている。
難しい事だとは思うのだが、地方の議会と行政機能の質の向上なしには本当の意味で地方分権の責任を負えるとは言い難い。もちろん経験する事で向上させるという手法もあるだろうが、地方分権に抱いていた期待が大きな失望に変わる可能性は決して低くはないだろう。

制度論から地方分権が語られがちではあるが、本当に大切なのはそれを実行できる責任「力」と「感」が見えてくるかに正直かかっているのではないかと思う。