Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

役割のない社会

 一時期メディアでよく用いられてきたNEET(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%88)という言葉に代わり、最近ではSNEP(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%97)というキーワードが当たり前のように使われるようになってきた(http://www.zaikei.co.jp/article/20141231/229006.html)が、若干の違いはあれどどちらも社会からの浮遊を表現するための分類用語である。
 少し前にはパラサイトシングルという言葉が生まれ、続いてその特異例として引き籠りが社会問題となったことからNEET(ニート若年無業者)という呼称が用いられるようになった。次にNEET状態が継続することで高齢化した引き籠もりが問題視され、ついには実質的に家族以外に社会との接点をほとんど持たない状況にあることをSNEP(スネップ:孤立無援者)と称するようになった。
 ただ極論を言えばSNEPと分類さるような状況でも、当人が稼がなくとも親に寄生する等で生きていける状況はまだマシな方かもしれず、さらなるドロップアウトには最貧困層への落下(あるいは孤独死)が待ち構えている。生きる望みを捨てれば死に至るのだろうが、生きる望みをつないでいたとしてもドロップアウトは社会的な死に近い状況を醸し出す。そして時にこのドロップアウトは本人の動かない(動けない)状況には関係なく、虐待やネグレクト等から家族との隔絶を目指し家を出ざるを得ない子供たちが、最終的に犯罪組織に身を寄せたり風俗に流れ着くことにより発生するケースがある。
 もちろん絶対的な数の上では少数であり、不況とは言えども豊かな日本社会においては身近にいなければその存在には気づきにくい。

 最近話題の言葉である「最貧困女子(http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%80%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E5%A5%B3%E5%AD%90-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E5%A4%A7%E4%BB%8B/dp/4344983610/)」を巡る議論(http://blogos.com/article/97879/)を聞くと居たたまれない気持ちになってしまうが、その多くが何らかの知的障害や発達障害等を抱えているという面が問題の解決を難しくしていることは理解できる。自己責任論(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E8%B2%AC%E4%BB%BB)は、当人に一定の想定されるレベルの能力や判断力があるという前提が暗黙のうちに了解されているが、実はその前提こそが社会の中で成立していないとすれば私達が抱く認識そのものが根拠を失う。
 この様な社会に主体的に適応できない人たちは、往々にしてセーフティーネットから容易にこぼれ落ちる。たとえ制度面で生活保護やその他のフェールセーフ機構を今以上に充実したとしても、おそらく彼らにその手が届くのは最後になるだろう。こう予想せざるを得ないのが悲しい現実である。

 「最貧困女子」の筆者である鈴木大介氏は貧乏と貧困の違いを例示し、貧困には貧乏ともに「三つの無縁」があるとする。具体的には「家族の無縁」、「地域の無縁」、「制度の無縁」としており、「プア充(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%82%A2%E5%85%85)」と呼称される貧乏ながらも楽しい生活を送っている層との違いを謳っている。
 社会からドロップアウトする多くの面々は上記の縁を子供のうちに何らかの理由で絶ち(あるいは立たざるを得ない状態に置かれ)、それ故に教育の機会や様々な情報などに触れるチャンスを逸してしまう。もちろん、児童養護施設(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%AB%A5%E9%A4%8A%E8%AD%B7%E6%96%BD%E8%A8%AD)などできちんと大学まで行く子供もいるので自己責任などの理由付けが全く立たない訳ではないが、それを失う者の多くは人間関係などをうまく築けないことでむしろ自ら関係性を絶つ方向に進みがちでもある。
 一部には周囲の献身的なサポートにより社会に復帰できる美談も見られるだろうが、同じ様な境遇に陥る子供の数が多ければ全てが恩恵を受けられるはずもない。結果的にこうした仕組みにより貧困は再生産されていく。個人に援助を求めるほどの社会性があれば何とかなるケースもあるだろうが、それさえ欠如していた場合にはシステムとしての救いを考えても前述のように網から漏れてしまうことを免れ得ない。
 まずは救えるところから進めるというのが現在のシステムのあり方で、結果的には救えない存在があちこちに存在する。この問題を提起することには大きな意味があると私も思うが、効率的に真の弱者を救済する方法が制度としては見あたらないため、偽りの弱者が救済され真の弱者が涙を呑む状態は容易に覆らない。いや、社会が許容できる範囲の制度としてはおそらく完璧を期することはできないのであろう。

 決定的な方策がないからこそ、一部の意見として地域関係の復活や懐古主義的な血縁社会の強化が持ち出されることもあるが、個人的には本当にそれが正しい処方箋とは言い切れないと考えている。現状と過去のスタイルとではどちらにも長所と短所はあり、長い試行錯誤の結果として生み出されたのが現在の社会であるとすれば、求めるべきは新しい形での社会のあり方であるべきであろう。それが何かを明確に今提示できる訳ではないが、一つの案として社会における役割を与えることがあるのではないかと思っている。
 そもそも役割とは何なのかと言うこともあるが、生活保護の仕組みも含めて社会的弱者になったものが立ち直るためには、現在の貧困再生産の連鎖から一旦関係を断ち切らなければならない。極端なことを言えば居心地の良い貧困と居心地の悪い一般的な社会生活という二者択一に陥っている現状を、別の選択肢(例えば三者にも四者にもという形)に変えていく仕組みはどのように作り上げることができるのか。
 生活保護問題でもいつも言われる、「年金受給者よりも生活保護の方が豊かな暮らしができる」とか「若者はもっと安い賃金でも何とかやっていている」といった指摘は一面で正しいと思うが、それを押し通すと大部分の真の弱者をどうしようもない場所に押し込めてしまう。
 確かに、生活保護を小遣い稼ぎや気楽に生きるためのツールのように捉えている人たちの存在は理解する。そしてその界隈では、楽な状態に甘んじる親を見て子供も生活保護に陥るという貧困の再生産が結構な確率で見られる。育つ環境が偏よればそれに応じた認識(価値観)を抱くのはある意味当然であって、子供を責めても意味はないが社会全体で見れば大切な働き手を失う非常に大きな問題である。

 私が言う「役割」とは縁を繋ぐための必要な立ち位置のことである。例えば、親からの虐待があれば家族の縁は切る方が良いことも少なからずあるだろうが、それに替わる別の縁を無くせばもはや残るものは限られてしまう。友人などの地域の縁を自分で掴むことができる人は多少救われるかもしれないが、上手く掴めない人は気づけば社会の最悪のセーフティネットに絡め取られる。これこそが貧困の再生産であり、最貧困女子であったり生活保護の繰り返しであったりする。
 生活保護が必要な制度であることは間違いないが、本来の趣旨は底辺から抜け出すための「一時的な」セーフティネットである。以前「生活保護二段階論(http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20130228/1361979875)」というエントリを書いたこともあるが、近年では利用者の1/3程度が高齢者と言うこともありもはや就労できない人たちも数多く制度を利用している。
 さて、こういった高齢者たちは単に生き延びさせるために最低限のセーフティーネットに支えられるべきなのであろうか。あるいは、貧困の連鎖から風俗へと流れ着く若者たちはそこしか行く道が無くて良いのだろうか。

 生活保護を受ける高齢者も、多くの場合は血縁を頼ることができない状況にいる(自ら望んだ場合も含め)からこそここに至った。全てではないだろうが縁を失った理由の一つが本人の性格であったり、あるいは軽度の知的障害・発達障害であったりするのではないかと思う。自己責任論をどこまで適用するかはなかなか難しいが、ほとんどの場合彼らは自己管理能力を有していない。
 その人たちに自立支援を行っても、当事者の資質や能力を考えると必ずしも大きな効果を得られるとは思えない。逆に何とかなるのであれば既存のシステムや制度でも対応できるだろう。こうした状況を如何にシステム的に社会の一部として受け入れていくのかが問われる。
 現状の制度はどちらかと言えば救済一方向で、また個々の性格(状況や特性)等が考慮されずに一様に広く薄く救う感じとなっているが、その最たる原因は社会コスト等の制約がネックとなっていると考えて良い。だからこそ、制度的に不足する部分をどのように「地域の縁」や「制度の縁」でフォローできるか、すなわち一定の制度に「縁」組み込む方法を考えなければならない。

 「縁」は一方的な援助でも形式としては成立するが、この場合継続的なものとなることはできない。有り体に言えば社会的なギブアンドテイクが大前提となるわけだが、縁を築けなかった人たちには相互関係をなかなか上手く理解できない可能性が高い。性格的や認知力等の制約があり縁を築くことができない人たちにどのように新たな縁を提供できるかが必要とされており、そ最低限の衣食住を保証するのみでは彼らを不安定な地位に留めるだけの力しか発揮できない。
 逆に言えば悲惨な状況に追い込まれる人や、生活保護の緩い面にどっぷりと浸かるしかできない人を生み出すきっかけとなっているのかも知れない。幅広い縁を失った者は、追い込まれるか逃げ込むしかないのであろう。繰り返しになるがそれを自己責任で切り捨てても、おそらくその数が減ることはないだろうと言うことである。
 民主主義社会である日本において、国民は最低限の文化的生活を送ることが憲法で保障されている。それを文面通り杓子定規に掲げるつもりはないが、少なくともコミュニケーションに問題があるとしてもそれのみで社会から爪弾きにされる理由はない。
 予防医学ではないが、こうした人たちの存在を如何に社会が包み込むための場所を用意できるかは、現代社会に与えられた課題ではないかと感じている。懐古趣味はよいが、昔の仕組みはこうした人の人権をほとんど考慮しなかったからこそ、地域社会における互助関係が成立していたと考えることもできる。だから、新たな社会的な役割を彼らにどのように与える事ができるかが問われる。

 無責任で申し訳ないが、現時点で私はそのための妙案を持ってはいない。ただ、予想以上に軽度の普段問題にならないような知的障害や発達障害の人が世の中には多いのではないかと最近は感じている。下手に分類すること自体が差別だと言われてしまいそうな気もするが、人権は大切にしながらも何が何でも平等というのも実際には社会の矛盾を拡大する方向に作用しているとも考えている。
 社会的なコストを払っても、社会に馴染みにくい人を受け入れる体制を構築しなければならないと考えるのだが、そのためには役割に応じた仕事というものを与える事で組み込んだ方が良い。施しは美談ではあるが、社会の許容値を超えると維持が極端に困難になり、結果として差別を序章することになりかねない。現在の人権的な観点から言えば正しくないかも知れないが、働き口としてのセーフティーネットがどこか(風俗や生活保護以外)にあれば良いと思うのだ。こうした特別な働き口を設定するが逆に差別を助長する可能性も認識してはいるが、それでも意義ある形で社会との接点を強制的に与えなければ落伍する形での接点しか残らなくなる。
 これは、社会との接点を当人の能力の範囲できちんと持てば救うという別の形でのセーフティーネットを意味する。それを「仕事」と呼んだがここではその生産性を厳しく問うものではない。社会に繋ぎ止めるために、仕事という形で役割を与えるモノである。
 おそらく、そこからも逃げる人は存在するだろう。ただ、単純な援助ではなく「縁」という形で社会に繋ぎ止めることを最後のセーフティーネットとすれば社会的批判も和らごう。

 更に言えば、もし仮に近年社会の縁が全体として希薄化しているとすれば、社会それぞれの要素である個人が果たすべき役割そのものの価値が薄れていることがあるのではないかとも考えている。だからこそ、社会の受け皿として何らかの具体的な役割を与えることは、希薄化しつつある社会にも一定の良い影響を与えるのではないかと思う。概念ではなく実体を与えた方がわかりやすいのだ。
 現代社会では権利と義務という言葉が定着している。分類そのものには間違いがないと思うが、義務という言葉は比較的広くとらえることができる。多くの人にとっては、その曖昧さが自由度を生み出し生活しやすくなるであろうが、これをもっと明確な形で「役割」として与えた方が良いケースもあるのではないかと思う。
 見方をすれば、これはその人の自由を奪うことにつながると言えなくもない。ただ、自由だからこそ居場所を見つけられない人もいるのだという可能性を考えたい。