Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミの意業(いごう)

 インタビュー時に、対象者をわざと怒らせて本音を引き出すテクニックがあるとされる。確かに感情を理性で抑え込んでいるとき、理性を凌駕する感情を呼び起こすことで口を滑らせることはあるだろう。これは、警察などの取り調べにおける自白に相当するテクニックだと考えることもできる。様々な証拠を十分に集め、その上で最後の一押しをするときにはこうした手法は大変効果的である。だが逆に考えれば、証言以外の証拠固め無しに言葉の上で挑発行為をどう考えるべきなのだろうか。

 私は基本的に以前よりマスコミには否定的なイメージを持っている。もっとも、最近は縁遠くなった人も多いが、友人にもメディア関係(TV・新聞)の人間はいるし、個人としては信頼できる人も少なくない。だが一方で、かつて経験したこととして新聞記者の横暴極まりない態度や、自分が組み立てたストーリーに当てはまる「言葉」を出させるために、手を変え品を変え同じ質問を繰り返す方法論には辟易してきた。その根底に感じられたのは上位意識というか特権意識に近いプライドを感じざるをえなかった。もちろんそれは私が感じただけであって、当事者は全く気付いてもいなだろう。むしろ自分自身こそが社会正義を実践していると感じていたりもしよう。逆に言えばそうしたプライドこそが、記者などのある種過酷な仕事を遂行するためのモチベーションとなっているとも言える。メディアの給与が下がり、モチベーションすらも低下した先には現在以上にレベルの低い記者やメディア関係者が増えていくだろうことは想像に難くない。

 話を戻そう。私は例えば東京新聞の望月衣塑子記者(望月衣塑子 - Wikipedia)は記者としての能力は高くないと考えている。ただその振る舞いが一部に賞賛される(<社説>官邸の質問制限 国民の知る権利の侵害だ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース

)のは、権力者(官房長官が多いが)にダメージを与えているというパフォーマンス(望月衣塑子記者の質問に、菅長官が語気強めた瞬間 会見場で何が起きていたのか|ニフティニュース)が受けているに過ぎない。特に冒頭でも触れたように、全く証拠固めもない中での無駄な質問の返しは、まるで新聞のワイドショー化に繋がっているように見える。政府の政策追求の場としては全く相応しくない。ここに来て、メディアの質の劣化が急速に進みつつあるからこそ、彼女があたかもジャンヌ・ダルクジャンヌ・ダルク - Wikipedia)のように持ち上げらるようになったのではないだろうか。個別インタビューをしているのであればまだしも、記者会見で行うような振る舞いではない。そしてこうした状況を私以上に苦々しく思っているジャーナリストも少なくないと思う。彼女の方法論は市民活動家と何も変わらない。だが、そうした手法もタブロイドメディアがこれまで実践してきている手法の焼き直しなのだから、質の話を論ずるまでもない。

 大部分の記者は、正直このような振る舞いは行わないだろし、経費節減など厳しい状況にも関わらず世の中の真実を伝えるために努力していると信じている。だが、このような流れは、メディア全体の存在意義まで貶めしまうことになるのではないかと個人的には危惧している。私は商売としての横暴さを見せるメディアが嫌いである。ただ、報道が社会において必要不可欠であることは認めている。現に、多くの人が新聞やテレビよりもネットを信じるようになりつつあるが、その情報ももとをただせば(一時情報の)大部分がメディアから流れて来たものだ。ネット上の情報や分析には、メディアが報じる以上の価値の高いものも多いが、それに何倍もするような意味のない言論が溢れているのも事実である。私はマスコミの現状を変えるためには、報道に関わる人口の減少が避けて通れないと考える。

 現状マスコミは社会変化による業態の大衆化にさらされている。インターネットの普及により、情報はメディアの独占物ではなくなった。要するに自由化が始まった訳だ。そして一攫千金を目指した多くの人がメディアシステムに寄生し、質の高い情報よりもより儲けに近い近視眼的な情報の現金化に邁進している。余裕のある時には、十分な検証を通じて質の高い報道をすることもできるが、余裕がなくなれば質の低い情報発信に集約していく。それを防ぐために、メディアは規制強化や既存の規制(記者クラブ制度等)を守ろうと躍起になっているが、本当に必要なのは淘汰による選別である。単純に数を減らせばよいのではなく、質の高いものが生き残る生存競争。それを経て再び報道の余裕を獲得したものが生まれることが重要ではないか。

 もちろん、報酬が低くても良い記事を書くジャーナリストはいるだろうが、一時的ならともなく長期的には難しい。私は完全なる規制緩和(排除)主義者ではないが、日本の国力を高めるためには競争原理を排除しきれないとは考えている。今でも十分役立っているという考え方はあろうが、変化の激しい現代社会においてそれがベストとは限らない。変化の全てが良いものではないが、社会的な必要性が低下した存在が長らく生き残れる社会は決して良いものではない。これまで多くの業界を叩き続けてきたメディア界が、もっとも変化に遅れている業界であると私は考えている。現状下請けの増加により生き延びているが、それが根本的にリストラクチャリングされるとき、マスコミのパラダイムシフトが起こり得るのではないだろうか。

 韓国のオーマイニュースに触発され、日本でも市民記者的な動きがかつてあったが、それが定着することはなかった。私は記者よりも解説者の役割にこそメディアのこれからの本質があるように思う。だから、一部の識者のインタビューや原稿依頼ではなく、外部(非常勤)解説者というものを大手メディアが用い始めることになれば、メディアの信頼性は再度確立できるかもしれないと思っている。記者叩き上げの解説者(論説委員等)ではなく、そこを外注(外部人材活用)する形になる。実際、一部雑誌メディアではそのような状況を確立しつつあるところは多く、それはネット上のページビュー確保に役立ち、結果としてメディアの存在価値を高めている。その時求められるのは、イデオロギーによる選別がなされていないことだろうが、それが難しいメディアも出てくるだろう。そしてそこにこそ淘汰があるように思う。

 大手メディアには、自分たちこそが報道を引っ張ってきたという高い自負心があると想像しているが、その自負心は現状のメディアの価値を必ずしも表していない。その思い(意業)が消えるようになるまで、マスコミの変化は難しいと考えている。どの企業でも同じだが、過去の成功体験は将来の成功を約束しない。それはメディアにおいても全く同じ事であり、一度苦しんだ後に復活してくる必要があるだろう。それが現在のマスコミが囚われている業(カルマ)なのではないだろうか。それを遅らせれば遅らせるほどにマスコミの凋落は深くなるが、個人として泥船から逃げ切れると考える人が多いのではないかと思うのは、メディア経由の大学教授コースが少なくないことから感じたりもする。これからもマスコミの社会的価値については、ずっと見続けていきたい。