Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

世論分断を促進するマスコミファクトチェック

 マスコミの発信する誤った情報や恣意的な世論誘導に対するネットの反撃は、マスコミ自身がファクトチェックを強いられるという状況を生み出すに至った(ファクトチェック - 毎日新聞)。これはマスコミの自己防衛的な対応の結果ではあるが、更なる分断を引き起こす序章ともなりつつある。そもそも報道機関は自分たちの報道が事実に基づいているかどうかを厳しくチェックしなければならないのは当然である。すなわちわざわざ「ファクトチェック」などと別の部門や内容を作る必要などない。しかし、現実にはそれがほとんど機能していない(【新聞に喝!】事実とは“真逆”の報道 作家・ジャーナリスト・門田隆将(1/2ページ) - 産経ニュース)と世間に認識されているからこそ、現状に至ったと考えた方が良い。もっとも、サイレンスマジョリティが求めるファクトチェックは主にマスコミ報道そのものに向けられている。だが、残念ながらマスコミが自ら宣言して行うファクトチェックは恣意的に選別され、自分たちと意見の異なる情報や意見発信者に向けられる(バズフィードと琉球新報が「ファクトチェック」で国際原則とかけ離れた記事、恣意的な運用の恐れ(藤代裕之) - 個人 - Yahoo!ニュース)。更に言えば、そこではファクトチェックを行う対象を操作し、重箱の端をつつくような揚げ足取りに陥る可能性はかなり高そうだ。

 すなわち、世論が期待したマスコミが自ら発信する内容に対するファクトチェックではあるが、現実にはマスコミが敵対する意見を追い落とすために利用している。その上で自身の報道にはチェックをかけなければ、公正性を謳いながらライバルの信用を貶め自分にとって都合の良い方向に世論誘導できるという仕組みである。こうした方法は韓国や中国が日本に行っている国際世論戦と構図が非常によく似ているが、すでに多くの国民はこうした虚構に気づいており、一時的には世論が動くことはあっても大きな流れは変わらない。ファクトチェックを前面に押し出しても大きく評価されることはないし、それにより信用性が改善されることもない。

 ところが、ファクトチェックを行うとしたマスコミ側は自分自身の正義に酔っているため、この恣意性には気づいていないか、あるいは知っていながらも自己防衛的な態度から方針変更ができない自縄自縛に陥っている。もちろん、左派メディアの意見に親和的な人は一定数存在し、マスコミを追認する意見もあるだろう。あるいは、十分に調べることもなく誤った情報を発信する人も少なからずいる。その嘘が広がっていくことも少なくはないし問題であろう。私は保守的な立ち位置だが、右派も左派も結構好きなことを言っているなとは思っているが、その傾向は左派系の方が高いようだ。自分の正義に酔っていると私は考えているが、いくら自らの信念に基づき報道しても世論が付いてこないため、それを強引に捻じ曲げようと自爆的な状況に陥っていると考えた方がわかりやすい。

 

 確かに、民主主義社会の世論がポピュリズムにより危うい方向に向かっているという認識は、広く緩やかに抱かれつつあると私も思う。その明確な兆候はアメリカの現状に見いだせるが、逆に考えれば政治闘争に勝つためにはポピュリズムが必須となっていると見ることもできる。ただ、このファクトチェック合戦は声の大きな方が勝つような仕組みである。自分たちと意見の異なる相手に対して行う攻撃なのだから。

 マスコミが良く行う報道の方法として、相手の言葉を切り取り都合の良いように用いることがある。例を挙げればきりがないほど当たり前のように行われている事態である(https://www.youtube.com/watch?v=pYITVi-XkZs&feature=emb_title)が、そういう事態が見過ごされている状況そのものが異常であるという告白をマスコミ側から聞いたことがない。かつて「TBSは死んだ」と発言したキャスターがいた(TBSビデオ問題 - Wikipedia)が、都合如意報道の身を繰り返すという意味では、既に何万回も死んではゾンビのように生き返っている。

 現状広がりつつあるマスコミが攻撃的意味で用いるファクトチェックは、単純に世論を分断する方向にのみ加担する。その理由は、そもそもの動機が自己防衛のためだからである。自己防衛のために自らの敵を叩く。それを応援するのは政治的思考を同じくする者たちだけ。ファクトチェックの名のもとに、世論分断化が着々と進められる。

 本当の意味で求められるファクトチェックは外部への指摘もあってよいが、それ以上に内部の報道姿勢を標的としなければならない。だが、既に衰退しつつある左派メディアにとって決して真面目に取り組めないことであろう。自分たちが他者に強制しながら自らは逃れてきた自己反省そのものだからである。右も左も、メディアはそういうことを過去から繰り返し続けてきたのだ。かつてほとんど唯一の発信者であった時代には抑え込めていた一方的な言論環境は既に崩壊しつつある。過去が正しかったという前提に立っているからこそ、マスコミの自己認識は間違ったままなのだ。正確には、過去にもずっと続けられていた不公正な報道が見逃されていただけなのだから。

 

 実際、世の中というものは不合理にあふれている。それは人間と言う存在が完璧でないことの証拠であり、社会に進化の過程が残されている希望の痕跡でもある。それを恣意的に、彼らが正しいと思えることで覆い尽くそうとしているのが左派だと感じている。だが、それは社会主義共産主義が失敗してきた計画経済や計画社会の匂いが強烈にする行動である。そしてそれを指し示す者たちが指導者として君臨する。未だにその夢を見ている人たちが予想以上に多いことに、個人的には辟易している。世の中はそんなに簡単ではなく、社会主義の指導者は専制への道を歩む。

 メディアが、実のところ社会の自由を奪う方向にシフトしているとすれば、それは暗黒の社会を導く標となっている。それを善意で行っていると信じているからこそ、彼らは自分の正義を信じて疑わない。自らを疑うという姿勢がファクトチェックの原点であろう。