Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

品性の下劣さを露呈した人たち

 安倍総理が持病の再発を理由に辞任された。安倍政権の政策には評価できる点もできない点もあったが、それでも長期に亘り国民の支持を得続けたという点だけでも、最高レベルの政治家であり総理大臣であったことは間違いない。まずは、「お疲れさまでした。当面は健康の回復に専念してほしい。」とねぎらいたい。もちろん、政治的主張が異なることから評価しない人もいるのは当然だろう。だが、国民が与えてきた支持をまるでなかったもののように扱うことについては、大きな疑問を感じる。

 

 既に多くの人たちがツイッター等で書いているし、私も以前より何度も触れてきた内容だが、安倍総理ほど国外の評価と国内(特にマスコミ)の評価が異なる人はいないだろう。それはある意味で理不尽なほどの難癖を、マスコミと野党から叩きつけられ続けたという一点において説明できる。その中で、過去最長の在任期間を続けてきたのだから、相当に強い信念と精神力があったものと想像する。普通の人にはとてもでは耐えられないような誹謗中傷によくここまで我慢し続けてきたと思う。志半ばで辞任せざるを得ないことの真の意味での無念さは、本人以外ではわからないだろう。

 そして、それを権力チェックのための当然のことと振る舞うマスコミの下劣さには、相変わらず吐き気すら催さざるを得ない。加えて、そのマスコミが作り上げた風潮に疑問持たずに追随する何人かの野党議員の反応も唾棄に値する。本当に、今のメディアに巣くう仁義も敬意もないような状況には目を覆わんばかりである。かつて、政局はメディアが作り出してきたという自負が今のメディア首脳にはあるのだろうが、それが逆に頻繁にトップが変わる不安定で世界に貢献できない弱い日本を作り出してきた。それでも経済成長により日本のプレゼンスが上がっていたため問題にならなかったが、メディアは国のためには何の役にも立たないということを証明していると思う。彼らは一時の人気取りのためには貢献するが、基本的に恐ろしいものには手が出せない、叩ける相手だけを叩くチキンである。中国で行われているジェノサイドには目をつぶり、自分に被害の及ばない日本という狭い枠の中で公人である総理大臣を叩く。それも、明確な非があるものではなく、憶測と予断と妄想によりそれを延々と続けるのだ。

 

 それは集団リンチと呼んでもよいような執拗さで、しかも付託もされていない国民の代表を騙るおこがましさ。個人的に記者やメディア関係の人たちに知人もいるが、個人としては良い人であっても集団としての下劣さは隠しきれない。この安倍総理の辞任劇において、その本性が赤裸々に露呈されてしまったように思う。

 もう20年以上前から、大手新聞社記者たちの傲慢な態度と不遜な言動は大嫌いであったが、今考えるに最も改革しなければならないのは、政治でも官僚でも産業界でもなく、メディアであるという気持ちを強く抱くに至った。彼らこそが日本社会に巣くう悪しき癌の一つであり、それが改められない限りにおいて日本社会は良くならないだろうという意を強くした。日本は政治が三流と呼ばれてきたが、少なくとも長期政権であった安倍政権時には国際的評価は過去と比べ大きく向上し、むしろアメリカや欧州との仲を取り持ち、TPP等他国籍の枠組みをつくり、指導力を発揮した点において一流に近づいていたのではないか。もちろん、かつて一流と呼ばれた経済は見る影もなく影響力を落としたが、その最大の理由は韓国や中国との産業構造のバッティングにある。

 それを解消するためには、中国や韓国とは産業的に争わなければならなかったが、様々な理由より日本は部品製造に特化する方向で生き残りを図ってきた。こうした浮き沈みは世の常ではあるが、一貫してレベルが低いままなのは日本のメディアである。アメリカが進めているデカップリングについても、相当前より着実に進んでいたものを大して報道することもなく、中国という独裁国家における人権を蹂躙し、他国を侵略するような横暴には触れず。それでどのような矜持で自らの姿勢を誇ろうというのであろうか。

 

 私が思うに、現在のメディア側(特に左派)の人たちには国家の形が見えていない、あるいは見ないようにしているのではないかと思う。観念的な世界観はあるものの、そこにはリアリティがない。あたかも幻想の中を泳いでいる。口で良いことはいくらでも言えるが、それを実現するには10倍以上の困難を引き受ける度量と努力が必要である。私は、芸術分野における評論家と制作者には大きな違いがあると思っている。もちろん芸術家にもいろいろあるので全ての制作者が優れているというつもりはないが、社会的に評価されていなくても新しいものを作り出す人の価値は、それを評論する人たちよりもずっと重いと考える。それだけ、モノを作り出し、実行し、人々に提供するということは困難があるものである。

 評論にも多くの知識と能力が必要であるのは事実だが、あくまでそれは他者の行いを論じているに過ぎない。誤解を恐れずに言えば、他者のふんどしで相撲を取っているのである。評論家に価値がないわけではないが、評論家は制作者や制作そのものに従属した存在なのだ。

 

 そして、この関係はメディアにも言える。メディアはその情報を生み出す何かに依存しながら生きている。たとえが正しいとは言えないが、人とウイルスの関係に似ているようにも感じる。私は記者やメディアなどよりも、現実の政治を行う政治家の方を間違いなく尊敬する。政治家にもいろいろといるので、尊敬に値しない人も少なからずいるが、それでも政権という重責を担ってきた人には一定の敬意を払いたいと思う(総理在任時においてのみだが)。それは鳩山元首相であっても同じである。彼のことは総理になる前より全く評価していなかったし、財政当時から辞任後も批判し続けているが、それでも在職時に受けたプレッシャーが相当のものであったと思う。少なくとも、彼の方が大手メディア所属に胡坐をかきながら政権批判のみを行っている記者などよりはずっと素晴らしい。

 

 繰り返しになるが、日本社会をよくするためには最低レベルのメディアの質が変化することが最も近道であろうという気持ちを強くするに至った昨日今日であった。