Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

社会的不適合

 ここのところ、続けざまに大きな事件が発生した。別に令和という時代の訪れが招いたものではないが、これまで蓋をし続けてきた社会問題が表に出始めたのだと思う。私たちの社会は、基本的に見たくないものや醜悪なものを封じ込めようとする。これはいじめを覆い隠す構図も、死の痛ましさや恐怖感というものを感じなくさせている流れもほぼ同じである。

 厚生労働省の元次官が息子を殺害するという痛ましい事件が発生した。これについても、殺害した父親を称賛するような風潮に一石を投じる意見が出ている。その意見を巡る議論は、前回のエントリでも書いたのと同じような状況だと認識している。要するにかなり我田引水的で、極論を提示することで自分の意見の正当性をかざしているように見えるのだ。

 人の命を奪ってはいけない。確かにこれは正論で間違いない。その上で、子を殺した父は犯した罪に応じた罰を受けなければならない。これも大前提だ。そのことを否定するものはいないだろう。父を擁護する多くの意見も、その罪自体を本気で無くそうとしているのではなく、状況を勘案して情状酌量を期待しているに過ぎない。それを、あたかも子殺しを肯定するかのような風潮を設定して非難する流れには与したくない。

 

 実際、酷い家庭内暴力を繰り返し、精神的に参ってしまうようなケースでは、本来考えなければならない常識が通用しないような環境が生まれている可能性がある。もちろん、関係機関に相談を持ちかけることも必要だろうし、警察の介入を早期に図る方法もあろう。そのことを否定しない。その筋の専門家ではないので、言われるような現状の社会システムを使う対処がどの程度効果的かは知らない。ただ、少し前にあった児童虐待に関する以前の対応を見ている限り、仮に相談しても本当に問題が解決するのだろうかという疑問は抱く。

 完璧なシステムが存在するのであれば、対応可能だろう。そしてそれを目指そうと努力することも良い。しかし、その完璧なシステムを現在の社会が維持できるのかと問われれば、人的にも費用的にもできないだろうと想像する。私たちの社会は、こうした問題に蓋をして、問題を抱える人たちにそれを押し付ける形で安定性を確保している。それ自体は非常に醜いことだと思う。だが、先ほども書いたようにコストや人的資源の側面で、それを全て解決できるとは思っていない。

 私が我田引水的だと言っているのは、こうした問題が広がることで自分たちの取組が注目され、あるいは補助金等のメリットを受けるという感じが何となく漂ってくることである。だから、こうした正論は間違いなく正しい。だが、それを完全に実現できるだけの社会的なリソースが存在しない。そんな時に我々はどのような判断をすべきなのだろうか。

 

 大部分の引き籠りの人が、攻撃ではないというのは間違いないであろう。だから、それに「悪魔の予備軍」的なレッテルを貼ることは正しくないと思う。一方でそのごく一部には攻撃的な存在もおり、その多くは社会的には隠されていて見えない。自分の知る引き籠りの子供が無差別殺人などしないだろうと思いたいものだ。それでも、意思疎通が難しく考えている常識が異なるような状況に至り、その楽観的な希望が正しいと言い切れる自信はどこまであるのだろうか。

 割り切れば、引き籠っているだけであれば、経済的側面以外には問題がない(それも実際には大きな問題だが)。また、引き籠りに至る何らかの理由がある人も少なくないだろう。人的あるいは社会的なトラブルや病気の場合。それはそれで親族としては理解できる側面もある。可愛そうだとも思う。ただ、同時になるべく早く立ち直って社会復帰してほしいと考えている。しかしその願いはなかなかに叶わない。

 

 私が思うに、引き籠りという存在は守られているのではなく、多くは家族によって隠されている。それが隠しきれなくなった現象、まさに最近起こっているのはそれだろうか。隠さなければならないという状況を社会としてどうすべきなのか。隠しているということは、その責任を全て隠している側が負うということ(守る場合も同じだが)。

 そう考えるとカウンセリングうレベルの問題では対処できないのではないかとも思う。

 

 動けないような病気というほどではない。同じ病気でも働いている人もいる。だが、それでも社会に適合できずに引き籠る人はいる。仕事以外であれば楽しく遊べるような人もいる。本人はその辛さを訴えるが、日々ゲーム三昧で遊んでいる状況を見ると、他人には本当なのかを疑わせるような関係がある。なぜゲームをしている間は辛くないのかと。

 だから隠す。他の人が見れば正常にしか見えない。他人が見ればすぐに、何とかしなければならないというようなわかりやすい事例はそれほど多くないと思う。怠けているとしか思えないようだが、何年も引き籠っている人はいくらでもいる。一度折れた心を修復できないままに固定化してしまった人たちがいる。それを解きほぐすための労力はとんでもなく高いものである。

 

 そして、こうした様々なタイプの人たちの中に、ごく一部非常に攻撃的な人がいる。無敵の人になってしまう可能性を持った人。それを的確に親が対処できるのか。対処法や相談窓口が広がるのは悪くない。だが、それでもこの社会は最終的に責任を親に押し付けなければならないのは変わらないだろう。豹変するか豹変しないかわからない存在と何十年も接し続ける。この事実を簡単な言葉で片付けることはしたくはない。

 

 なかなか難しい問題だと思うが、私も問題を自分で食い止めようとした判断を、完全に断じることはできないでいる。