Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

心を閉ざす

 別に病ではなくとも心を閉ざしたくなる時は誰にでも存在する。心を閉ざすというのは自らが意図して外部との関係を断つことであるが、だからと言って隠遁生活を送るような積極的なものではなく、心理的な無反応による隔絶を図ろうとするものでもある。閉ざした先にどのような平安が待っているのかは私には想像しがたいが、多くの場合には求める平安というよりは直視したくない現実に視界を向けないことが重要なのだろう。
 自分の世界を作り上げることは、例えば「ものづくり」においては非常に重要な要素となるが、これにはその緻密な世界観を社会に対して公表し評価を受けることが前提にある。もちろん社会が下す評価が常に平等で正当性を持っていることはなく、むしろ多くの場合には理不尽で身勝手な評価がまかり通っている。
 その理不尽さを責めるのも、不平等性に憤るのも自由ではあるが、社会に受け入れられたいということが目的であるならば、こうした歪みも含めて社会であることを受け入れなければならない。もっとも、創造は自らの信念に基づかなければ説得力を欠く。自らの信念を社会に認めさせるためには数度のチャレンジではなく、それを貫き通せる強靭な精神が必要だろう。社会が容易には評価しないことであっても、自らに強い信念があればくり返し創り続け挑み続けることは出来るはずである。そのことに対して容易に社会に認められないからといって自分自身が疑問を抱いてしまうようでは、結局社会に見透かされてしまう。
 確かに一部の幸運な人達は、軽いチャレンジで評価を受ける人もいるだろう。しかし、こうした評価が一生続くわけではない。評価を自らの血肉にするためには、認められていない時以上の努力が必要とされるのだ。

 さて、話が少し別の方向に行ってしまったので戻すこととしよう。心を閉ざすと言うことは、自分の世界を作り上げると言うよりは外の世界との関係を絶とうとしている点で消極的な行為である。たとえ自分の心の内であっても新たなものを生み出すというプラスの行為ではなく、むしろ既に持っていたものを削り取っていくという作業だからである。
 そこに至る心理状況には多くの原因があり、傷ついた心を癒すためには一時的に刺激を極力避けるという必要性があるのは理解する。問題は、それが傷を癒す時期や状況を越えて継続していく場合には、どのようにそれを捉え理解していくかが問題となる。引き籠りも、若干形式こそ違えど構図は非常に似ていると私は思う。

 PTSD(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E7%9A%84%E5%A4%96%E5%82%B7%E5%BE%8C%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E9%9A%9C%E5%AE%B3)などによる過去のフラッシュバック(追体験http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF_%28%E5%BF%83%E7%90%86%E7%8F%BE%E8%B1%A1%29)等の症状に悩まされる人は多い。私は専門家ではないため詳細な機構については熟知していないが、脳の一部にあまりに強烈に記憶が刻み込まれたことから現れる症状なのだろうと理解している。
 現状では、特定の記憶を消し去る方法は以前より研究(http://wired.jp/2008/11/01/%E3%80%8C%E8%84%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E7%89%B9%E5%AE%9A%E3%81%AE%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%82%92%E6%B6%88%E5%8E%BB%E3%80%8D%E3%81%AB%E6%88%90%E5%8A%9F%EF%BC%9A%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E8%B3%AA/http://sankei.jp.msn.com/wired/news/111221/wir11122113000003-n1.htm)されているが、現状では実用に耐えるものはまだないと理解している。
 ただ、それでもいくつかの方法(心理セラピーや催眠療法など)を利用することで症状を軽減できる場合もあることは、これもまた事実である。軽減作用は個人の頭の中でも当然行われており、忘却、転嫁、昇華などの様々なパターンでその痛みを和らげる機構が作用する。逃避も、その有力な一つの手法で間違いなく、心の痛みを緩和してくれるもっとも容易な方法である。

 心を閉ざしてしまうという状況は、こうした逃避の継続がもたらしているものであろうと考える。問題は、この逃避と言う行動はもっとも扱いやすい方法であるが、状況を乗り越える力を持たない手法でもあるということだろう。物事を乗り越えなければならない場合、二つのアプローチが存在する。
 一つは、乗り越えるべき状況を軽減する方法である。課題を簡単にするということだが、これは忘却により課題そのものを忘れ去るというのも一つの方法論ではある。あるいは、別のものと置き換えるなどの方法により与えられた問題から心が受ける圧力を軽減するというのも方法の一つであろう。
 そして、もう一つはまさに王道ではあるが自らの心を強くすることで、課題そのものを乗り越える力をつけることである。もちろんそれが容易にできないからこそ他の方法を探るわけではあるが、この状況が最も目指すべきものであることは変わらない。

 閉ざした心は、仮に薬の発達などにより実質的な精神的苦痛が取り除かれたとしても、解消されるかどうかはわからない。それは、逃避の穴に逃げ込んだ現状から脱皮しなければならないという気持ちがどれだけあるかにかかっている。
 逃避と言う手段は、使い方によれば非常に良い結果を導く場合もあるだろう。ただ、それを続けることにより自らが受けるデメリットは決して小さなものではない。逃げ続けて生きることはできないと、どこで開き直れるかが全てのような気がする。