Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

他人事と自分事

 川崎市で起きた痛ましい事件(川崎・登戸で小学生ら19人刺される。女児1人と男性1人、身柄確保の男が死亡(UPDATE) | ハフポスト)は、様々な問題を私達に投げかけてくる。例えば、この犯人を引き籠りの一人として、その文脈で対処法を考えるべきなのか、あるいはサイコパス的な特異な思考を持った人間の犯行として捉えるべきなのか。はたまた、50-80問題の一例として考えるべきなのか。

 正直、既に様々な報道をがなされているようだが、私としては判断に至るだけの十分な情報を持っていないので、少なくとも現時点では何とも言えないと考えている。

 

 そんな中、二つの問題が話題になっているように感じた。一点目が、ネット上で拡散される「犯人は在日」の声(https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/kawasaki-trend-blog)である。もう一点は、これも事件が広まった後に即座に出てきた「独りで死ね」という動きに対する反論(川崎殺傷事件「死にたいなら一人で死ぬべき」という非難は控えてほしい(藤田孝典) - 個人 - Yahoo!ニュース)であった。

 実はこの両者を見た時に、内容的には異なるテーマなのだが、似た傾向を思い浮かべてしまった。前者に関して言えば、今回の事件に関わらずネット上では毎回凄惨な事件が報道されるたびに湧き起っている内容でもある。今回は、特に犯人の名前がなかなか出てこなかったことが拍車をかけたのではないかと思う。ただ、そういうネット上の情報を見るたびに、先走って噂を流しているなとは感じている。

 統計データ等を見れば、一面で在日外国人の犯罪率が高いのは事実である。だが、絶対数で見ると圧倒的に日本人の方が多いのだから、凶悪犯罪を起こす数は間違いなく日本人の方が多い。犯罪率の高さは、在日外国人が置かれる経済的状況が日本人ほど恵まれないケースが多いことも一因だが、それを誇張しやすい状況は決して褒められたものではないと思う。

 後者についても、事件発生後早い段階で見解を出していることから、この事件を受けて発表して発表した内容ではなく、普段からの言説を機を捉えて多少のアレンジを加え出したものだと想像する(想像が間違っていたなら謝罪します)。ただ、個人的には事件の背景も全貌もわからない中で、事件を比較的断定的に判断・処理しようとしている感じがあまり好ましくは思えなかった。内容的には頷ける部分もあるが、全体として我田引水的な匂いを感じたということである。少なくともそう結論付けられるほど、今回の事件はまだ一般化できていない。

 

 そして、その我田引水的な部分が私が先に示した二つの言説の流れに見出した共通項である。要するに、私たちは直面した社会不安を引き起こすような事象に対し、なるべく早くに自分なりの結論に至りたいと考えているということである。

 最初の方で、私はこの問題の判断を保留した。それは判断するには情報が不十分だと考えたことがあるが、それ以上にこうした犯罪に対する知識のバックボーンが不足するため、報道以外の推測を進めることができないことがある。

 一般に識者と呼ばれる人は、自己の有する知識と見識により報道では出てこない隙間を埋めてもっともらしい説を提示する。その後にその説の妥当性が認められれば、見識が高い識者として認められるというのが本来の姿だが、社会を見ると一時的にセンセーショナルに問題を取り上げる人(あるいはあまのじゃくな意見を言う人)の方がメディア受けするので、間違った見識を何度も出していても淘汰されない。

 

 識者の問題以上に思うのは、ネットの発展に伴い多くの素人・にわか識者(自分ではコメンテータとも思っていないだろうが)が無責任な言動を振りまいているとされる。既存メディア(特に新聞等)が問題視するのはその部分だろう。だが、ネット空間で発せられる無責任な言動を単純に悪と断じても、こうした現象の解決には至らない。

 それは、時に明らかな虚偽であろうと推測できる内容ではあっても、自分の心を安心させるために何らかの情報を「信じ込もう」とする行為ではないかと思うのだ。

 

 「何か良くわからない」ことを、早めに何らかのレッテルを貼ることで安心する。実はその安心には、何の効果もない。自己満足に過ぎないのだが。だって、「犯人は在日」と規定したからと言って、個人的にはどんなメリットがあるというのだろうか。

 あるいは、「一人で死ぬべき」とは言うべきでないと主張したとして、それはどんなメリットがあるのだろうか。後者は、自分の仕事として関わっている言う上での営業的な側面があるだろうことは想像できる。もちろん、それを認めることはないだろうが。

 

 両者に感じられるのは、同調意識である。営業的か、そうではないかは別にしても、社会的な同調を以って自己満足に至る。

 

 だが、ふとそれについて考える。それはタイトルにも書いた「自分事と他人事」についてである。こうした事件を他人事として考えていれば、そこまで必死に自己満足する必要はないのではないかということ。

 これは、社会の多くの人たちが、事件を自分事として捉えているということだと思っている。だからこそ、自分の不安な気持ちを早期に解消したいと考えて、わからないままに無理矢理の理由のこじつけを行う。

 

 私も小学校の時に何度も言われてきた、「他人事ではなく、自分の問題として考えましょう」といったニュアンスの指導。それは情報環境が加速度的に発達する前の、プライベートな範囲が狭かった時に私達がコミュニケーションを確実に、あるいは緊密にするための方策として有効だったこと。

 だが、情報量が格段に増加した現代では、その考えが人々の意識に過度な負荷をかけてしまっているのではないかと言う不安を抱く。昔なら、こんなニュースをどこまで真剣に考えていただろうか。

 

 今回の事件を一国民として傍観して、その悲しみに対しては犠牲者に哀悼の意を表したいが、同時に物事を単純化したがる傾向が広がり過ぎているのではないかと問題に、若干の懸念を抱いたりもしている。