Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

程度を議論しない人たち

 物事の白黒をつけるというのは非常に分かりやすい。全てのことが悪と善にきれいに分けられるのであれば、大部分の人にとって世の中は今以上にすっきりするかもしれない。だからこそ勧善懲悪の時代劇は人気を博し、政治家でもポピュリストと呼ばれながらもそれを指向する。だが、現実には明確に善や悪に分類できるようなものは稀にしか存在せず、ほとんど物も人も場面も白の部分と黒の部分を併せ持っている。

 その両者を全て含め飲み込んだ上で、それでも如何に価値があるかを競うのだ。完全無欠の人間が存在しない様に、完璧で壊れることのない機械がない様に。ミスや間違いあるいは悪い面も含めて判断する。その裁定基準として常識が存在する。もちろん、悪の力が強くなりすぎて常識を逸脱してまで勝つことは許容できないため、法律により許せないボーダーラインをルールとして決め、あるいは強制力を与えている。

 

 このように、国内問題であれば法律によりある程度の対処は可能(だからこそ権力者は法律執行者を押さえようとする)だが、国際間の問題はもっと複雑である。国内的なルールほど厳しくできないため、自らの味方をどれだけ増やすが勝負の分かれ目になる。倫理的・論理的に正しくとも、味方が少なければ負けることが多くなる。

 だから、私たちは善悪を判断したり正義か否かを定義づけることではなく、問題が包含している(含む)良い面と悪い面双方の程度を常に考えなければならない。だが、残念ながら多くのケースでは、表面的な二項対立が演出される。特にメディアがそれを扱うときの姿勢が顕著である。わかりやすさやインパクト。それを優先するために、中身の議論が放置されてしまう。

 

 例えば、韓国が日本を責めるときにまず最初に使う問題として、いわゆる「従軍慰安婦」問題がある。私はその当事者たちを可哀そうだとは思うが、韓国や一部の日本のリベラル系論者たちが主張するような、日本の国家的犯罪ではないとと考えている。

 とくに問題とすべきは、そこで用いられている数字である。「20万人」という数字が、韓国や北朝鮮からは何度も発せられている。当時の朝鮮半島の人口が約2000万人で、そのうち半分が女性として1000万人となる。その中で適齢期の女性が20%を占めると仮定して約200万人(既婚未婚を考慮せず多めに見積もっている)。すなわち、適齢期女性の10人に1人は強制連行されたらしい。その数字のバカらしさは、誰もが認めるところだろう。若い女性の多くが強制的に連れていかれるような状況で、そんな状況に反対せずに暴動等を起こさないということは考えられるだろうか。当時ですら、朝鮮人は粗い言動で有名であったのだ。 

 同じ様なことは、南京大虐殺と呼ばれるものである。私は南京で戦闘行為があり、その中で人が殺されたのは事実であろうが、30万人とか言う大虐殺ではないと考えている。こちらも、数字が極度に誇張されていると見ている。こうしたものは、宣伝戦として国家間のマウントの取り合いにおいて活用されてきた。特に戦争に負けたという日本は、その点において抗せいられないため絶好の標的となった訳である。

 

 ちなみに言えば、今韓国は朝鮮戦争時代の慰安婦への補償を求め、アメリカに喧嘩を売り始めている。日本に対する策がもう一つ上手くいっていないため、実際の被害者が多く存在する方向に舵を切りだした様だが、これこそ本当に筋が悪い。韓国が国内闘争を勝ち抜くために外国を利用することは歴史的にも明らかだが、それは国家として必ずしも健全な状況ではない。特に、味方にしておくべき国家を国内対立の理由として遠ざけることは、将来に向けて大きな禍根を残すことになる。一度裏切った者は容易に許されないのである。

 

 さて、同じ様な話は韓国がオリンピックに向けて日本下げの理由で再びクレームをつけ始めた汚染水問題に代表される原発問題、嫌韓的な言論を否定する左派系メディアや識者達にも言える。世の中の事情とは、それほどきっぱりと割り切れるものではない。最近の左派識者は非常に不寛容で攻撃的である。それは、自分たちの活動が広がりを見せないことに加え、批判的な声が大きくなっているからであろう。だが、この思想的不寛容さこそが多くの若者を遠ざける源泉となっている。

 一般的に若者達はリベラル的な思想を受け入れやすい。最近の左派こそが守旧派になっていることについてはかつて書いたが、それでも思想を同じくする人以外に対する姿勢こそが若者を遠ざけているのではないかと思う。負のスパイラルとでも呼ぶべきだろうか。主張に現実性がない(夢見がち)→それを指摘される→反対意見に対する無視や身内のみでの慰め合い。

 ここで言う現実性のなさに、タイトルでもある程度の議論がある。善か悪かという対立要素で見れば、いわゆる慰安婦問題や徴用工問題などは断罪されてしかるべきかも知れない。だが、その背景には強制性の問題や実際の数の問題があり、程度を考慮した場合には考え方が変わることは少なくない。だが、それを議論することを器用に避けていくのである。広義の強制性などという新たな概念を持ちだし、あるいは数を検証せずに事実問題のみに議論を限定する。

 

 私は、日本の全てが良いし正しいとなどとは考えていない。場合によっては、日本にクレームばかりを付ける韓国の意見が正しいこともあるだろう(最近は容易に思いつかないが)。彼らにも彼らなりの戦略があり、国家として生き延びようとあがいているのは事実である。それが上手くいっているかどうかは別として。

 例えば、韓国は東京オリンピックをボイコットせざるを得ないという考え方が披露されていた(カイカイ管理人「韓国が東京オリンピックをボイコットせざるを得ない理由」 : カイカイ反応通信)。絶対にそうなるとは言い切れないが、これまでの行動を見れば説得力ある論考だと思う。私も以前より、韓国の日本に対する嫌がらせが増加するであろうことは何度か触れてきたが、日本からすれば迷惑な話だが、韓国なりの生き延び策であることは否定はしない。それとどのように相対するかは日本が決めるべき事である。

 それを詳細や程度を考えずに、断交すべきという言説も、日本が譲歩して仲良くすべきという言説も、私にとっては同等に興味がない。単純化された分かりやすい内容は、物事の概要を短時間で伝えるには役立つが、詳細を考える上では全く意味がない。

 

 私はリベラル系の識者やメディアにこそ言いたい。自己主張を否定されることを恐れすぎて、世の中の声に耳をふさぎ、周囲を否定し、寛容さを失う状態。それに陥ってしまっているからこそあなた達はまさに今、力を失っているのだ。まずは寛容さから始め、その上で繰り返し論理を持って利を説くこと。それが説けなければ、それはあなた達が持っている論理が弱く、理が不足していると言うこと。

 私は、どちらかといえば保守的な思考であるが、リベラルを否定しない。様々な考え方には、それが適用されるべきタイミングがある。その時期を掴んでいるかどうかが全てだと思う。タイミング無き論理には、大きな力を期待出来ない。それは宗教や慣習で行うべき事で、外交や社会問題などを考える上では不適である。

 

 まずは、有無ではなく、善悪でもなく、程度を議論すべきであろう。