Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

イデオロギーはふりかけ

 イデオロギー(観念の体系:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%87%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%82%AE%E3%83%BC)とは、個人レベルでいえばそれまで生きてきて得た知識と経験のエッセンスである。さらにその中には、個人が得た知識を生み出している先人たちの苦難と苦悩が凝縮されている。だからこそ、イデオロギー自体が悪であるとは言い切れないどころか、多くの場合には金言となり得る内容が内在している。
 しかし、エッセンスだからと言ってそれが現代社会を支配するルールとして認められるかと問われれば、それもまた違う。社会も人々の考え方も常に変化し続けている。その流動の外側に位置するイデオロギーはその独立性故に貴重ではあるが、その独立性故に社会の全てを言い表すことはできない。

 それは、ご飯にかけるふりかけのようなものなのだ。ふりかけは、様々な具材が用いられる食材のエッセンスのようなものである。そのバラエティーも豊富であり、味気ないご飯であっても彩りと変化を添えてくれる。場合によっては一定の栄養価も持ち、食生活に一定の地位を占める。
 しかし、逆に言えばふりかけのためにご飯を食べることはない。あくまでそれはご飯を美味しく食べるための触媒であるのだ。主従で言えば、ご飯が主でふりかけは従。エッセンスであり美味しさが凝縮されているかもしれないが、それでも私達はご飯を食べるコトをメインとしている。

 イデオロギーとは、過去のエッセンスを上手く活用して変化の激しい現代社会を生き抜く助けとしては当然価値あるものであるが、それはあくまで過去の知恵。現代がそれに支配されるというのは本末転倒である。
 だからといって、こうした観念を無視するのが正しい訳ではない。道具として、あるいは手段として理解した上で用いることには大いに賛成だが、それが議論や意見を決定づけるメインの指標となるのはおかしいのではないかと想うのだ。

 とは言え、私も一定のイデオロギーにより行動や判断を決めている面もある。常々、その時期とタイミングに応じて良い考え方を上手く利用・活用したいとは思っているがなかなか難しい。それをするためにはその分幅広い知識とバランスの取れた判断能力を常に発揮し続けなければならないし、そのせいで社会においては状況をよく知らない人たちから変節漢呼ばわりされることも多々あるだろう。
 要するに大変なのである。その大変さを緩和しようとすれば、一定の考え方や方法論に従うのが容易である。その持ち出される方向性の代表格の一つとしてイデオロギーは存在する。しかし、盲目的なイデオロギーの乱用は、所謂「原理主義」と何も変わらない。

 私達が頑固であるべきなのは、原理原則においても社会や他人に多大なる迷惑をかけるが故に抑制すべき内容であり、自分の行動方針のぶれではない。ところが、社会的には行動方針や姿勢のぶれの方が大きく問題とされ、その結果人々は原理原則を信条としてしまう。それが依怙地なまでに考え方を凝り固まらせたとしても、時にはぶれない人と賞賛を受けさえする。しかしぶれないことの判断基準は基本的に自分自身にある。回り回れば社会に関連しなくはないが、それは直接的には社会には関係ない。自分の理念や考え方を信じてもらうための一つのパフォーマンスなのである。
 中国故事にもるように、「君子は豹変する」ことがあるがその判断基準は最大限の結果を残し社会のために資することである。そこには自己の信頼を高め守るための視点は存在しない。

 イデオロギーは無くしてはならないが、だからといってそれに依存してもならない。イデオロギーはふりかけと同じなのだ。