Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

形式主義と卒業

卒業とは学校の全課程を修了することであるが、現実の社会ではそれを修得していなくとも履修さえしておけば、それをもって卒業とみなしてしまうのが普通である。
完全に理解しなければ終了の判定が下されないとすれば、多くの場合には落第となってしまい卒業には至ることができない。その状況が長く続けば、除籍あるいは退学という可能性もある。現実には義務教育において退学にまで至ることはよほどの理由がなければ無いのだろうが、留年についても橋下大阪市長が言及する前にはほとんど下されない処分であった。
多くの子供達が学力の不足を嘆かれる現状を考えたならば、この履修という考え方が実効上の習得であるのか、形式的な習得であるのかは大きな問題でもある。もちろん先生方の努力にも限界があるわけであり、現状の学習期間内に全ての生徒に全ての内容を理解させることはほとんど不可能にも近いだろう。ただ、そのような状況があるからと言って形式的に「履修したこととする」という形のみを重視した手法を用いれば、結果的に理解させるという本来の目的から遠のくのも事実であろう。

実質を重視すれば時間的人員的制約に直面し、形式を重視すれば現実の教育に大いなる不足が生じる。教師個人の頑張りは前者を後押しするが、同時に先生の資質によりその効果は大きく変化する。
先生の資質に依らない教育を行おうとすれば、どうしても一定のマニュアル的な行動にならざるを得ず、その結果として形式主義が横行する。

形式主義の典型は、実のところ官僚主義とかなりリンクしている。官僚主義という言葉で言うのが良いのか、大企業病という別の言葉で呼ぶのが良いかはいろいろとあるだろうが、まず形ありきという意味ではかなり近い。私が思うに、組合活動などもこれらに結構近い感じがしている。
すなわち、子供達を卒業させるというその部分に最も重きが置かれ、学問を修めるという部位に欠落が生じやすい。その時によく持ち出される議論に「子供らしさ」であったり「個性重視」などという美辞麗句がある。一般的には質の部分の議論であって、量の議論ではない。
義務教育時代における学習の基本は、個人によって効率の差はあるものの学習に真剣に取り組んだ時間と蓄積した知識の量が最も大きな意味を持つ。それは形式的に授業をした時間とは強固に関連しない。その効率を追求されたくないが故に、本来比較しがたい個人の持つ「質」の議論が持ち出されるのであろう。

別に個人の質、「資質」が教育において重要ではないと言いたいのではない。それこそは個人の資質に大きく支配するものであって個別に伸ばすべきものであろう。ただ、同時にベースとしての学習を実効あるものにすることが義務教育などではまず重要だと思うのだ。私はこの両者は本来対立関係にあるのではなく相互補完関係にあると思っている。それをあたかも対立要素のように持ち出されることに疑問を持っている。

様々な卒業を形式的に処理することは、その瞬間は無駄な労力がかからずに合理的であろう。人生の区切りとしての意味も少なくない。ただ、結果として真の意味での卒業には至れない人を多く輩出するとするならば、卒業って一体何なのだろうかとふと考えてしまうのだ。

「卒業にも、様々なタイプの卒業があっても良いのかもしれない。」


(おまけ:小説習作「幽霊を卒業」)
http://alternativissue.blog.fc2.com/blog-entry-15.html

今週のお題「卒業」