Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

マスコミが空気を読んでいいか

 所謂「イスラム国」と呼称されるISILに関する報道で、テレビ朝日の「報道ステーション」がネット上ではあるが批判を浴びている(http://www.excite.co.jp/News/net_clm/20150129/Aol_celebrity_hst_isil.html)。私は報道そのものを見たわけでは無いのだが、番組の取り上げ方がISILに好意的であるように見えることが理由であるようだ。
 また外務省が報道の仕方について強く抗議したという話もある(http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0205/san_150205_4299581358.html)。

 さて、ISILについては2つの側面で捉えることができる。一つには、欧米中心の搾取構造に反発するレジスタンス(正式に言えば反シリア政府が最初に来るのかもしれない)という側面と、残虐なテロリストであるという側面である。
 前者であるレジスタンスの意味で取り上げる人は、実のところISIL単体を見ているのではなく大きな範疇の一つとしてISILを認識している。他方、その特異性に着目して存在そのものを許すべきではないという意見が数多い。識者はこうした問題を相対的に捉えようとするため(あるいは単純化させたくないため)、人によっては同情的とも取れる認識を披露するケースがある。
 私は、どちらかといえば後者に属しその残虐性は現代社会において許容できるレベルをはるかに超えていると考える。確かにレジスタンスという側面が少しはあるかもしれないが、少しでもその側面が見えれば許されるというオールオアナッシングに近い考え方は取りたいとは思わない。
 逆に言えば、だからこそ状況があまりはっきりしない段階ではテロ行為そのものを非難するということしかできなかった。それがここにきて情報量が増したことで、私個人として考えが固めることができるようになった。

 ISILをどのように認識するかについては、自分が置かれた立場や状況により変わることは、そこに参加しようと世界中から若者が集まった状況を見てもわかるだろう。現状の社会に不満を抱いている人たちが状況を打開できるかもしれない可能性(夢)に賭ける行為はいつの時代にもある。
 最近マスコミから参加した外国人戦闘員が逃亡を企てて殺されている状況や、逃げ出したいという後悔の声を伝え始めているが、状況自体は事実であろうが宣伝戦の側面が非常に強いであろう。戦闘員の供給を絶つことができればISILがじり貧になるのは目に見えているのだから。
 しかし、日本のメディアや一部知識人(+政治家)はシンパシーを表明することまではさすがにしないものの、本来の敵をISILとすることには否定的であるようにも見える。だから、政府(あるいは安倍総理)が悪いという結論を一生懸命こじつけようとしている。正直言って馬鹿げた話だと思うのだが、そうせざるを得ないのは何故なのかにこそ最も私が興味を抱く。

 正義の話で何度も書いてきたことではあるが、正義とは相対的なものである。自らが信じる正義は価値観が異なる他者から見れば悪と見えることも少なくない。だから、ISILの視点に立てば有志国連合こそが悪の権化でもあろう。
 だからといって、お互いさまと言うには彼らの残虐さは突出しすぎている。彼らの存在を受け入れるには逆説的ではあるが世界は平和すぎるのだ。彼らが目指す社会はおそらく大多数が受け入れられるものではない。
 結果として大多数が抱くであろう正義に従い私は彼らの存在や行為を悪と見做し、その行為や主張を擁護しない。日本政府のこれまでの対応に瑕疵があったかどうかを検証する作業は必要だが、それはISILの残虐な行為を正当化したり覆い隠すものであってはならない。ここまでを前提とする。

 さて、実は本エントリの主題はISILを巡る流れに関してテレビ朝日(あるいは報道ステーション)が謝罪すべきかどうかという問題について、私は謝罪しなくても良いのではないかと考えているということを書いてみたかった。
 これは別に、報道ステーションの報道内容に共感しているからではない。報道をまとめる上でどのような思惑や考え方が内部的に交わされているかがよくわからないでいるが、何を訴えようとして冒頭で書いたような内容になったのかには正直興味がある。
 ただ、現状のメディアを巡るあたかも強要するかのような画一的なネットにおけるバッシングに関しては少々食傷気味でもある。この流れは、日本の言論が同じ方向を向くことを期待している感じがするからである。
 個別で言えば、報道ステーションのスタイルや内容が良いとは思わないが、だからといって私はそれ以上に画一的な言論がまかり通るようになることを危険視する。それは言論が極端に振れることを意味し、一時的には最適解であったとしても次には悪手となる可能性を秘めている。

 多くの日本人が眉をひそめている韓国の言論の状況を見れば良くわかるであろう。反日に関して言えば画一的とさえ言えるような状況が健全な言論空間といえるはずもない。大きな流れに反するものが社会的に抹殺される状況は、「社会的モノカルチャー」とでも言うべき状況だと思う。
 韓国に関しては経済も同じような体制であって、一時的な好調を得られても状況の変化に凄ぶる弱い。日本の強みは一面において冗長的すぎるかもしれないが、変化に耐えうる多様性を備えていることだと思っている。それを維持できる限りにおいて日本の未来は明るいとまでは言えなくとも暗くはならない。
 敢えて反論や反証の余地を残すことは、考察を深める意味においても大いに役立つ。もちろん、だからと言って無責任な言説を自由に広めて良いと言っているわけでは無い。少なくとも言論空間を一色に染めようとする動きに反応しているに過ぎない。
 確かに、朝日新聞テレビ朝日が容易に考えを変えるとは思わないし、これまで逆の意味で理想主義すぎるような言論が幅をきかせていたという反動もあろう。ただ、それを踏まえてもマスコミが空気を読みすぎる社会はどこか胡散臭くなってくる。

 書いている自分でも、どのあたりが妥当な報道範囲なのかはまだまだ決めることができていないのを痛感しているが、この問題は「従軍慰安婦問題」と比べればそれほど大きなことではない。なかなかうまく表現できないでもどかしいのだが、バッシングのためのバッシングは実のところISILを叩かず日本政府(ありは安倍総理)を叩く一部知識人や政治家と同じではないかという感覚が私の中で拭えない。
 あるいは、こうしたバッシングがマスコミの態度を変えさせない範囲で上手く終わって欲しいと思っているのだろう。杞憂に過ぎないかもしれないが、昨今の社会的雰囲気は明らかに変わりつつある。現時点での変化はまだまだ十分許容範囲に収まっていると思うが、それが行き過ぎるようになる前には少しずつではあるが意見表明をしたいと思う。

 私は日本という国が多彩な考えや言論を許容できる国だと信じている。しかし、大きな問題に面したとき一時的には社会的な意見の集約が生じる。それは問題が解決されれば再び元の多用な状態に戻って欲しいし戻るべきだと思う。
 その際に最も役割を果たすのは、おそらく空気を読まないマスコミではないだろうかと考えている。戦前の新聞は空気を読むどころか先取りしすぎて(煽ったと言っても良い)失敗した。戦後のマスコミはその反省から温厚な空気を演出することに腐心し、それが却って国民に不信を生み出した。今、空気を無理矢理読まずに依怙地に頑張るのが良いのかどうかを探っている状態ではないかと思う。
 できれば、柔軟に少しは空気の気配を感じながらも言論の多様性を維持するために腐心してほしいと願っている。