Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

古賀茂明氏と田母神俊雄氏

 犠牲になったお二人およびご親族の方々には深く哀悼の意を表します。また、ISILの極悪非道な行いをあたかも許容するような言動をすることは、日本のみならず世界がこれまで築いてきた社会秩序を覆すことだと強く言いたいと思います。

 さて、タイトルに上げた二人はどちらも官僚(田母神氏は自衛官)から民間へと転身した著名人と言って良いだろう。テレビ的な扱いとしては前者は知識人枠で後者は政治家枠となるかもしれない。後出しなので偉そうなことを言えるものでもないのだが、両者とも最初から胡散臭く言動の信頼性は低く感じていた(以前のエントリで何度か軽く触れてきた:http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20120911/1347290661http://d.hatena.ne.jp/job_joy/20130924/1379978838)

 「脱藩官僚」と持ち上げられた古賀氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%8C%82%E6%98%8E)だが、言動は私の感覚からすれば単なる依怙地(あるいは頑固)な性格の人なんだなと見た。一時期マスコミで優秀だと持ち上げられたりもしていたが、能力的には官僚の中には彼よりも能力の高い人はいくらでもいるので取り立てて言うほどのものでもなく、変わり者という呼称の方が適していると今でも思っている。
 田母神氏(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%AF%8D%E7%A5%9E%E4%BF%8A%E9%9B%84)についての退官時の騒ぎは記憶に残っている人も多いかもしれない。退官時の経緯についてコメントするつもりはないが、「ネトウヨの星」と揶揄された昨年末の衆議院選挙で得票率を伸ばせなかったのは記憶に新しい。自衛官出身ということもあって防衛論を主体に言論展開をしているが、その論理は時に飛躍的ですらあり政治家としては冷静さを欠き、知識人としては緻密さを持ち合わせていない。それでも扇情家としてはある程度の才能を持っているだろうとも思う。

 いずれも両者は形こそ違えど、ある意味で組織において突出し辞めることになった。組織から独立すれば万歳というはずもなく、一個の人間であり生きていくためには稼ぎを得なければならない。大企業でも官僚でも組織をバックに持つ場合は、制限を受けると同時に力を得る。受ける制限は内部的なもので、発揮する力は外部的なものである。
 組織から出た瞬間に最初に感じるのは、組織にいた時との社会の対応のギャップである。頭では予測していたとしても、実感としてはそれを超える厳しさを味わうことも多いのではないだろうか。社会の中に明確な個を確立できない限りにおいて、この厳しさは経済的にも精神的にもなかなかきついものである。

 個の力を磨くことで社会に受け入れられ必要とされるようになれば、周囲の評価や対応は180度変わる。現金なものだとは思わなくもないが、社会における人の評価は不連続性を有している。企業などの組織内ではアナログ的な評価を受けることができたとしても、一般社会はそれを評価することは特異な例を除いてないと考えても良い。
 少なくとも独立した人にとってはそう感じられるであろうが、現実にはお試し期間を与えられているのだと最近は考えるようになっている。反応がないように見えるが、気になる人は様子を常に見ているのだ。ただ、すぐに助けたり媚びたりはしない。それだけのことである。

 ここにきて両者の本質や資質を表すような事柄が続けざまに発生した。
田母神氏、ネット情報うのみ? 「人質事件」で不確かな情報連発(http://www.j-cast.com/2015/01/30226731.html
古賀茂明氏が語る「I am not Abe」発言の真意 (http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/156835
 記事の内容をどのように捉えるかは皆さんにお任せしたいが、私は両者ともに視野が如何に狭いかを示したと考えている。
 実力の問題もあるとは思うが、それ以上に考えられるのは独立後の自らの立ち位置の構築に汲々している面があるのではないだろうか。もちろん一時的にはマスコミに取り上げられ、時代の寵児のようなポジションを得た。それ故に講演会や書籍の収入により一定の糧を得ていると思う。
 普通に考えれば、この時点が最も価値が高く徐々に社会からの関心が薄れていくものではあるが、それを乗り越えるのは自らの価値を社会に強く認めさせることである。その腐心の結果がこのような行動に表れているのではないかと思う。

 要するに、マスコミに持ち上げられた虚像を維持するためには刺激的な言動を行わざるを得ない状況に追い込まれているのだと思う。それを自覚して行っているのか、はたまた無自覚になされているのかはわからないが、人は生きていくため(というよりは自らの価値を維持するため)にもがき苦しむ。
 その過程をまざまざと見せつけられているのだと思う。過程が納得のできる、あるいは尊敬できる振る舞いであれば自らの価値を高めることができるであろう。しかし、少なくとも私にはそうは見えない。
 むしろ一度得た虚像を必死に繋ぎ止めようと足掻けば足掻くほどに深みにはまっていくイメージを抱かされている。

 まあ、「どうでも良い」と言えばそれだけのことではあるが、気になってしまったので少し書いてみた。抱く感想は人それぞれだろうから私の考えが正しいと主張するつもりもないが、知識人の矜持とは何であるべきかについては少々感じさせられる。
 もう少し時間を置けば、尊敬できるような振る舞いと私の目に映るようになるだろうか。