Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

言論の自由にはなぜ保証が必要か

 民主主義においては様々な自由が最大限保証されている。もちろん自由(権利)は義務とのセットで存在しており、自由な活動という権利を獲得するためにはその自由を保証できるシステムを維持するという義務を負う。これらの義務は、憲法にも示される、勤労、納税および教育の三大義務の他にも、遵法など規定されるものもあれば社会的慣習により暗黙の裡に指し示されるものもある。
 義務の固定化は社会の自由な発想を妨げる危険性を確かに秘めてはいるが、ち密に組み立てられた現代社会に不安定さを導きかねないため変更は厳格に取り扱われる。自由は権利と歩みを同じくするが、それそのものが先天的な権利ではなく、常に現状の社会が維持されるという前提に寄りかかっている。義務を果たさないから自由が与えられないのではなく、義務を果たさなければ現状の社会システムを維持できなくなる可能性があり、だからこそ自由(権利)を得るために国民の義務は存在すると考えるべきではないか。

 義務ばかりを大上段から押しつけるようなことを言いたい訳ではない。ただ、自由の裏側にはそれを保証する社会があると言うことを常に認識して欲しいと思う。もちろん、社会は一人が義務を放棄したからといって容易に揺らぐものでは無い。そのため、自分だけはと義務を果たさず権利のみを主張することも短期的にはできなくない。ただ、年金不払いなどに見られるようにそれが社会に蔓延することで、一人一人にとっては小さな事でも社会としては取り返しが付かない広がりを見せることが予想される。
 義務を果たさないという面のみを見れば、三大原則すら守っていない人も少なからず存在する。もちろん個別には様々な事情が存在し斟酌すべきケースもあるだろうが、だからと言って無限にそれが許される訳ではない。生活保護問題であっても社会にセーフティーネットとして非常に重要な制度ではあるが、緊急避難的な制度が慢性的に利用されるという状況はできる限り避けなければならない。

 本来ワンセットであるべき義務と権利が、個別の存在として意識され濃淡が生じてしまっているのはなかなか悩ましい状況と言えるだろう。原則的には権利に応じた義務を果たさなければならないが、それを追求すると権利を持ちえない人が増加してしまうという社会的不合理を引き起こす。それ故に税金の場合でもわかるように、負担できるものが率先して負担する制度が造られている。
 ところが私たちは普段それを意識することはない。なぜならば、権利は結果として目に見えるが義務はその成果が漠然として見えてこないことがある。こうした権利と義務の非対称性が私達に状況を錯誤させる。権利には義務が常について回るのは厳然たる事実であるにもかかわらず。
 例えば、言論の自由についてもそのカウンターパートであるべき義務が何なのか、明確に答えることは容易にできはしない。マスコミなどは報道の自由という形を用いて自らの言論の自由を傍証するが、この場合には国民に正しい情報を提示するという義務がある。すなわち、無責任な報道や言論は正しい情報を提示するという義務と相反する。
 また、個人レベルでの言論の自由(に関する権利)は個々に相対する義務を有しているわけではない。もちろん公衆の福祉を毀損しない範囲での自由の行使という制限はあろうが、個別に負うべきものは倫理面としての自らに正直でるべきこと程度かもしれない。

 ただ、それでも私達が言論の自由を確保すべく努力されなければならないのは、当初に触れた内容と同様に、言論の自由は自由そのものに絶対的な意味があるのではなく、それを制限することにより社会が発展をできなくなるからではないか。
 それは逆に言えば、社会が正当に発展すべき基礎的な条件を踏み外さない範囲でという制限を負うことでもある。社会を混乱させない、社会を扇動により暴走させない、嘘はつかない、等々。もちろん一人の言論により社会全体が大きく動かされることは稀ではあるが、それが集団的かつ継続的に行われれば社会は戸惑うだろう。
 私たちは、より良い状況に社会を改善し続けなければならない。そのためにこそ言論の自由は保障されるべきであって、改善という状況の認識が異なれば意見は変わるであろうが、少なくとも偏った状況にならないことに気を配らなければならない。