Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

言論の責任

 一般的には、社会において権利に対する概念として義務が存在する。多くの人々は、権利を主張し義務のことをあまり語らず蔑にしようとする。権利を行使することは自由でかつ容易であるが、それに歯止めをかけるために義務には法律による強制力を与えていることが多い。
 ただし、人間社会においては慣習という形で義務を強制するスタイルも存在するし、宗教では教義としてそれを定めている。どちらの場合も破ればコミュニティから追放されるとすれば、義務は自らの生存をかけて守るべきものとなる。

 言論の自由についても、同じように言論の責任というカウンターパートが存在する。これは基本的に誰にもかかる要件ではあるが、特に差が生まれるとすれば言論を生業としているか否かということがあると思う。言論を仕事として利用して者は、その業務に応じた責任を言論に対して負うということだ。
 逆に言えば、一般市民は普段から言論により地位や収入を得ているわけでは無い。マスコミ関係者や言論人、そして政治家はまさにそれにより権威や立場を(そして報酬も)得ている。この両者が等しく言論に対する責任を負うべきとは考えにくい。言論に関わる程度に応じて負担すべき責任は異なるであろう。
 世間一般において、「有名税」という言葉で芸能人などのプライベートが暴かれるようなことがある。私はその考え方の全てに賛同する訳ではないが、これはメディアを通じて利益を得ているという対価として、多くの人は必要悪だと認識しているが故に用いられる言葉なのであろう。

 昨今のメディア批判は、概ねこうした言論の自由に対する義務や責任を社会が問いかけていることに起因している。言論を糧とする者たちは、ある時「その責任は当然だ」と言いながら、またある時は「自らの自由を尊重しろ」と言う。自由は尊重されるべきだと思うが、それに応じた責任を負わなければならない。しかも、それは自らに都合の良い我田引水の責任であってはならない。
 テレビや新聞がことさら騒ぐ「言論の自由」が阻害されることに対する恐怖であるが、一部を除き国民はその恐怖にあまり同調していない。なぜなら生活がかかるような問題は言論以外でも施策により頻繁に生じているが、それをマスコミが言論の自由を主張するが如く取り上げている例など有りはしないのだから。

 言論の責任と言うことで思い出せば、朝日珊瑚問題も、従軍慰安婦誤報問題も、そしてオウム真理教情報横流し問題も、それどころか枚挙に暇がないほど見付けることができる。メディアはそれに対する正しい責任を果たしてきているのであろうか。あるいは識者達が発言してきた、間違った指摘に対する責任を取ってきたのであろうか。
 実を言えば、それを追及したいがためにこの話を持ち出している訳ではない。その問題をキチンと指摘できる存在が何処にあるのだろうかと言うことが今問われていると考えている。内田樹(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E7%94%B0%E6%A8%B9)さんは文章攻勢の巧みさにおいて尊敬する人ではあるが、同時に私と一般的な主義主張や立ち位置は全く異なっている人でもある。ところが彼のブログにも私が今書いていることと若干似通った問題意識を見かけることができた(http://blog.tatsuru.com/2015/07/01_1542.php)。
 言論の理非を誰が判定するか(それが現れるのを望んでいる)というニュアンスであろうと理解したが、私は正しさなど時と場合により変わりうるものだという考え方なので、それをジャッジする公衆(のような概念)には正直期待していない。
 ただ可能なこととして、言論を生業にしている人たちの無責任な行動を記録して伝えることには一定の意義を感じている。今あるようなまとめサイトにはまだまだ十分な発信力があるようには思えないが、政治家のように選挙により地位を剥奪される訳ではない言論者は、別の面でその価値を評価されるべきなのだと思うのだ(それは私のような場末のブロガーも同じ対象である)。
 メディアなど、直接的な利得を得ている者だけではなく言論者として社会的地位を得ていることも問題とされよう。自らを「電波芸者」と割り切れるのであればそれもまた良いが、少なくとも識者枠においてメディアで発言する人たちには一定以上の責任が伴うと考えるべきであろう。
 ただ、一つ重要なのはそれが直接的な圧力となって言論を阻止してはいけないことである。あくまで各々が言論を知り判断する上での指標となることを私は望む。例えば、Wikipediaなどは非常に不完全なネット資料だという意見には同意するものの、それでも全体的な傾向が掴めるという意味において有効なツールだと思わずにはいられない。

 基本的にはこうした識者たちも信頼性を失えばメディアに登場しなくなるものだと思うのだが、不思議と犯罪などによる信頼性失墜以外ではそれがない。すなわち、メディア側が使いやすい人を使えるタイミングで用いているという面が強く識者とは従属的な存在だとは思うが、それでも機会を得て発信している以上責任を負うのは当然であろう。
 逆に言えば、メディアは自分たちが言いたい本音を識者に代弁させており、それをもって自らの責任を回避する術としているという面がある。もし同じ人たちが繰り返し一定の主張を述べるために登場しているのだとすれば、逆にその手の主張は人材が少ないという証拠になるのかも知れない。
 メディアとしては最終的に売り上げや視聴率を稼ぐことが目的であって、議論が面白くなければならないのだから目立つ議論ができる人が求められる。けだし、エキセントリックな人材は彼らにとって良い素材となる。
 実は、識者とメディアの持ちつ持たれつの構造こそが言論の責任を曖昧にしている元凶ではないかと私は思う。政治家のそれを追及することも確かに重要であることに異議はない。しかし、第四の権力の責任を追及する存在はこれまでのところネットを含めても弱いままである。
 メディア側としてはそのような存在の出現を看過できるものではないだろうが、健全な言論の発展においては正しい情報をきちんと知ることは重要だと思う。それでも個人のリテラシー能力には限界が存在するし、その動意付けに弱さがあると私は考える。もちろん一種「超人」のようなそれを発揮する人がいても良いが、結局社会が集合体により構成されていることを考えれば皆がどう考えるかにかかってくるのである。

 正直言って私はあまり原理原則を重視しないふわふわとした考えなので、それほど立派なことを言い切れるような強さをもってはいない。ただ、だからこそ常に考えるための素材と場所を欲してもいる。暴論を言えば「言論の自由」は本当に必要かという議論をしても良いとすら思う。
 どちらにしても、言論の自由に対する責任については今後も考えていきたい。