Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

義務は社会が評価する

 世の中には不満が溢れている。時には怨嗟の声となり、時には政治的に取り上げられ、あるいはデモという行動に至ることもあるだろう。だが、現代日本ではこうした不満は集中や暴発しにくくなっている。私自身応援しているわけではないが、SEALDs(http://www.sealds.com/)の活動はマスコミの応援にも関わらず彼らが思うほどの広がりを見せなかった。このような湿った花火の様な状況は国民性故の事柄と取り上げられがちではあるが、かつての安保闘争など日本人が全く行動を起こさない訳ではない。社会が成熟したという考えもあろうが、やはり行動を起こすに至るまでには不満の累積が不足しているのだろうと思う。あるいは、不満の感情が分散させられている。
 この現象は、アイドルなどの変遷と似ている。かつては多くの人々の心が一つにまとまりやすかった。それは選択肢の少なさが関係していると思うが、多くの人たちが求めてきた多様な考え方を許容する社会が成立している裏返しかもしれない。

 さて、集団としての不満だけではなく、個人レベルの不満も世の中にはありふれた存在だ。一般的に、不満の発露はその大部分が自らを巡る処遇あるいは地位・利益、そして信念などが適切に評価されていないという意思表示である。適切に評価されていると考えているならば、トラブルを招きかねない不満を敢えて表に出す必要はない。ただし、私たちは生活において同時に多くのことに取組み対応していることもあり、ある面では満足で別の面では不満足という状況のケースが多い。全てに満足しているというのが理想ではあるが、満足感の収支がプラスにあることで納得している人も多いことだろう。
 そして、全てに対して不満を抱いているという人も一定の数存在する。そのような状況に陥った理由は様々だろうが、自分が思っているほどに評価されないという状況は一体なぜ起こるのであろうか。自己評価が高すぎるというのは非常に分かりやすい理屈だが、私はそれに加えて個人の果たしている義務に対する評価が関係しているのではないかと思う。
 それは、個人的な能力を最前線に振り向ける部分ではなく、むしろタスクを如何に受け持って処理するかと言う面ではないかと思うのだ。そこにおける認識は、自分自身が気づかない最大のポイントではないだろうか。

 不満の表明は、言論の自由として他人を誹謗中傷したり公共の福祉を損なわない限りにおいて認められる国民の権利である。それは自己評価と他者評価の違いに起因して生み出され、往々にして自己評価の方が過大であることが多い。もちろん、様々な事情により実力が的確に評価されないという事例も無い訳ではないが、一般的に考えるとそこに含まれる可能性はかなり低い。
 自己の評価が低く見積もられていると考える原因は、自分が評価するポイントと他者が評価するポイントのすれ違いがある。要するにアピールポイントが、本当に他者にアピールしているのかと言うことである。そしてここでは先ほど触れたように、「何を為したか」という点において「やりたいことをした結果」ではなく「与えられたタスクにいかに対処したか」が比較的高いポイントとして評価されるということになる。

 よく子供のころ言われたことがある。「人の嫌がる仕事を引き受けなさい」と。しかし、就職を考えるころにはもちろんそんな考えはどこかに飛んでしまっている。自己実現をできる仕事を一生懸命に探し、そして時には夢破れて望みとはかけ離れた仕事に就くこともあろう。
 もちろん、希望の仕事に就いて大活躍する人もいる。そのような誰もが羨むような世界で成功する確率は非常に低い。僅かな成功者と共に、多くの敗残者がそこには生まれ続ける。成功には届かずとも、好きな仕事に関わることで自分なりの満足を見出せるならばよいだろう。しかし、心に描く自分と現実の自分のギャップが大きければ大きいほどに、周囲の評価が正当ではないのではないかと考えるようになり、発露させるかどうかは別にして不満を心の中に溜め込んでいく。

 私は思う。突き抜けた才能を持つ人たちに対しては、確かに社会はその才能を称賛するだろう。しかし、そこに至れない大多数に対しては能力そのものだけではなく、果たすべき義務にどのように向き合っているかについても同時に評価する。私たちの大部分は、果たさなければらない義務について理解しながらも、それをおざなりにして自らの能力のみを評価してほしいと切望する。
 時には、「義務はきちんと果たしている」と公言することもあろう。形式上は確かに果たしていたとしても、それは社会的に評価されるレベルに至っているのであろうか。おそらく社会的に評価されない人の場合には、その義務を評価されるレベルで果たしていないのではないか。そう思うのだ。

 タスクは多くの場合面倒で嫌なものである。私とて、進んで引き受けたいと思うほど心が広くはない。だが、それが与えられた時には、真摯にそれに取り組めるのか。多くの人たちのために骨折りができるのか。こうした点を社会は常に見ているように思う。
 私たちは自分の能力や、評価してほしい(自分が前面に押し出している)部分のみが社会に認められて欲しいと考えている。しかし、それのみが取り上げられる人は一部の天才に限られる。大部分の秀才や凡才(私も含めて)たちは、義務をきちんと果たしているかどうかを見られているのである。
 義務を回避し、少しでも楽をしようとする人たちについては、どれほどの成果を上げていようとも、企業的には評価されても人間的には評価されない。それが社会による個人の評価ではないだろうか。

 こうした状況は、実のところ個人レベルだけではなく社会的な活動など集団においても言えるのではないかと私は考えている。さて、私たちは義務を認められるレベルで果たしているのであろうか。