Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

客観的な自己評価

 客観的な自己評価というものはなかなかに難しい。大多数の人間は、通常他人に厳しく自分に甘くなるのが常だし、仮に自分に厳しく接する人も等身大の自分を見つめているかどうかなんて良くわからない。と言うのも、自己成長や人生の戒めとするため厳しくしていると思うのだが、いつの間にか自分に厳しく接すること自体を目的としている様に感じることも多いからである。もちろん、これらは私が見て感じてきたものであって、全てに人に当てはまるというつもりはない。そう、的確な客観視をできている人もいるだろう。ただ、その数はそれほど多くないと思うのだ。
 自分を客観的に見る。その簡単な言葉で表現できる状態を実現しようとすれば、実のところこれほど厄介なものはない。「客観的」という言葉は「客」という文字が含まれているように、自分ではない客から見られる存在、すなわち「客体(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93%E3%81%A8%E5%AE%A2%E4%BD%93)」からの観察を意味するのだと思うが、この場合の客体は不特定多数ではなく自分以外でありかつ自分と関わりのある人を示していると考えるべきだと思う。当然のことだが、赤の他人が自分を評価したり判断したりすることはない。そもそも意識や眼中にはないからである。

 だが、私たちはそれを一般論に置き換えて考えようとすることが多い。なぜなら、客体が考えていること、評価している事項やその中身を私たちは基本的に理解できないからである。もちろん、積極的に自分をどのように評価しているかと問いかけることで確認可能であろうが、質問される側としても通常的確に答えられる人は多くない。教師や指導者などの人と接する専門家であれば、問題点を分析し感情ではなく事実に立脚した評価を伝えられるかもしれない。だが、人を見ることを仕事とする人は限定されている。
 そして、大部分の人は相手をしっかり観察する義務を負ってはいないのだから、他者の評価は多くの場合直感によっている。すなわち、「良い」、「悪い」、「好き」、「嫌い」などの感情的な評価が大部分を占める。だからこそ、評価の理由や分析内容を問われても、よほど特徴的な何か(成果や結果)でもない限り明確な答えを説明できはしない。無理矢理こじつけることは可能だが、回答の信憑性は低下していくだろう。さらに、何度も多くの人にそのような問いかけを続けるとすれば、子供時代ならいざ知らず一定の年齢に達すれば迷惑がられるのは容易に想像できる。

 すなわち、他人の評価についても私たちは空気や状況を呼んで忖度(https://kotobank.jp/word/%E5%BF%96%E5%BA%A6-555929)しなければならない。何も特殊なシチュエーションについて言っているわけではなく、ごくごく日常的な生活の中で生じている所作である。私たちはそんな判断を一日の中でも何十回、何百回と行い続けている。もちろん他者の評価に敏感な人もいれば鈍感な人もおり、それができなければ社会の中で生きていけないというものではないが、能力の一つとして評価される要素ではある。特に、合意を強く尊重する日本社会ではその点を重要視される傾向が強い。
 だが、他人が下す自分への評価を正直どこまで適切に把握できるのかはよくわからない。例えば利害関係が介在すれば、そこに騙し合いや誤魔化しが介入するのは良くあることだし、そもそも大人は感情をやたらめったら表さないというのが社会的な慣例であったりもする。だから、結局私たちの忖度は他人の反応などから自分がどのように受け取ったかを感じ取っているに過ぎない。

 そんな困難なことを、私たちは自分に関わる全ての人に対して行えるのであろうか。こうした忖度は、大部分を無意識のうちに行っているが、時に意識的に嗅ぎ取ろうとする時もある。だが、その結果が正し良いかどうかを確認する明確な術は存在しない。家族や兄弟なら長い経験則から概ねの想像は可能だろうが、それほど頻繁で濃密な接触の無い社会関係では、こうした経験則は曖昧な判断を下せる程度である。だからこそ、思い込みで補強された相手の豹変を時に裏切られたと感じ、また正しく認識して貰ていた筈の自分の評価が不当に低いと嘆いているのである。兎に角、現実には人の気持ちや評価を読み取る行為の大部分を無意識が負担しており、自動的故に読み取り精度は相当低い。
 そもそも無意識は無理をしない。もちろん注意深く観察すれば可能かもしれない。だが、それには多くの動力が必要だ。忙しい社会生活において、その大部分のパワーを他者の評価を感じ取ることに投入するのは非現実的であり、かつ生産的ではない。だから、私たちは多くの客体による自分に対する評価を、世間一般的という概念を用いて取り扱おうとしがちになる。この両者は似たもののように見えるが、内実は全く異なっている。それは評価対象(すなわち自分)がそれぞれ個性ある存在であって同じではないからである。

 一般的とか平均的とかいう、社会をなんとなく上手くまとめた様な考え方は、確かに社会全体を考える時には有効であろう。だが、それを個人レベルに適用しようとすると途端に信ぴょう性が怪しくなってしまう。それほどまでに、個人の存在は個性的で変化やオリジナリティに富んでいる。だから、「一般論」とか「平均的」なんて指標で見ることは多くの場面で大きな間違いに結び付く危険性を秘めている。
 たとえば子供の教育において、画一的な教育方法が本当に良いと現代社会において信じている人はどれくらいいるだろう。平均的な教育を万人に提供するより、教育者の負担が他言えられる範囲において個性に沿った形の教育プログラムを提供した方が、子供たちの能力が伸びるのは間違いあるまい。

 さて、自分を客観視しようとすれば周囲の評価を知らなければばならないが、ここまで触れてきたようにその評価を確実に知る術はない。なんとなく他者の下している大雑把な評価は感じ取れるかもしれないが、それは自分の客観性を担保できるほどの詳細さを持っていない。これではあたかも解答のないクイズにチャレンジしている様なものではないか。いや、実際その通りなのだと思う。だからこそ、自分を客観視することは何より難しい。
 だが、少し考え方を変えてみよう。他者を能動的な判断者として評価すれば、その考えを読み取るのは非常に難しい。だが、他者を自分の行動やアクションを受けて受動的に反応する存在と考えてみればどうだろうか。喩えるならば、自分の周りにいる人たちは鏡の様なものだと考えることである。そして、私たちは日常から他人と言う鏡を介して自分を見ていると想像するのである。
 それを的確に感じ取れるのであれば、既に自分自身を客観視できているではないかという意見もあるだろう。確かに、そう言うこともできる。だが、私たちはそもそも普段から、自分が感じたいもの、知りたいものを選択的に受け入れ、嫌なものや避けたいものを認識しない様に忌避するという行動を取っている。

 子供の時には基本的に気の合う者同士がいつも一緒にいることが多い。それは、自分が受け入れたい状況を作り出そうとする素直な反応であろう。学年を重ねるごとにそれだけでは社会は回らないことを学習するが、根本的な指向性は齢を重ねてもそれ細大きく変わることはない。
 それは、いちいち細かな判断や思考を行うことなく、感覚の部分、すなわち無意識により快適な状況を選択しているからに他ならない。大人になれば、トレーニングにより無意識から意識へ振り替えて(多少の苦痛を伴いながらも)理性的に判断できるようになるだけのことである。

 もっとも、客観的でありたいと誰もが常に考えているわけではないだろう。上記の通り、人間は基本的に自分の無意識で自動的に反応しがちな存在である。繰り返しになるが、私たちは他者の好意や敵意は比較的敏感に感じ取るが、それは自分の客観性を担保させるほどに精密なものではない。
 それは自分を取り巻く他者の感情の部分を強く感じ取るからではないだろうかと私は考えている。私たちは幼いころから本能的に敵味方を感じ取る訓練はしてきたが、それ故に感情以外の反応に気づけていないのではないかと思うのだ。

 だが、感情の部分をできる限り排除して周りの人たちを見る時、周囲がどのように自分を評価しているのかが少しずつわかるのではないかと思っている。実際には、感情への感受性が非常に高いため、嫌われていると感じた人から何かをつかみ取ることはなかなかに難しいのは承知している。しかし、自分を否定的に見ている人や厳しく接する人の反応をきちんと知ることは、自分を客観視する上で大きな助けになる。
 その方法論の一つが、他者を自分を映す鏡として見る訓練である。最初は自分に接する人の反応がコミカルであるとか、慌てやすいとか、楽しそうとか、どんな感じ方でも良いと思う。その反応は、感情を抜いて考えると中々に面白い。冷静を装っているように思えるとか、ある程度勝手な想像でも良いと思う。
 そして、こうした見て取れる反応を個人レベルではなく、自分に接する全ての人の反応から得られた知見をジグゾーパズルのように自分なりに組み立てていく。間違っていると思ったならいつでも組み直せばよい。楽しみながら考えた方が良い。

 自分のことは自分が最も知っている。だが、自分の感情は自分の理性に嘘を吐く。それ故に、私たちは自分を客観的に評価することが非常に難しい。また、個別の他者の反応から読み解こうとしても、感情が介在するとこれまた容易なことではない。しかし、多くの接する人たちの反応を単純な出来事として、イベントとして、ピースとして集めていき、そこから自分がどう評価されているのかを推察することはおそらく可能ではないだろうか。
 断定的ではなくとも良いのである。集められるピースは常に増えていくし、新たな人間関係があれば多種多様になっていく。そして、他者の反応を自分の感情抜きにして集めていくと、それこそが結果として自分自身も客観視できるようになる最短の道筋のように思う。そして、嫌いな人であってもその人の評価できるポイントを見つけ出せる方法でもある。

 これは、私が普段から行っている自分なりの方法であるが、誰もが納得・理解出来るものではないかもしれない。ただ、どんな仕事でも楽しみを感じられる方法はあるように、様々な人からの反応を自らの糧にできるのではないかと思うのだ。要するに、全ては自分自身の捉え方であり、そしてそれを上手く進めるための方法論なのである。