Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

鬱憤の発散

 安保法制については粛々と成立すると見ているが、今回の動きについては政府並びに与党である自民党においても稚拙な面が数多く見られた。マスコミやリベラル系の識者たちが反対するのは最初からわかっていたことであり、その中でのいくつかのトラブルは、2回続けての衆議院大勝の甘えと驕りがが出たのではないかと私は思う。

 一方でリベラルとお茶を濁すのではなくはっきり言って左派の面々に関しても、彼らが強い国民的支持を得ているかと言えばこれまたはなはだ疑問であるというか、むしろいかに影響力が無いのかを実証したのではないかと思っている。芸能人や一般の知識人たちも、こうした活動に賛意を示すとマスコミ等を通じてことごとく祀り上げられているようなのが可哀そうにも思えるが、少なくとも言論の自由が許されている日本では、自分の意見を言えるということは非常に健全な姿勢であり批判すべきものではない。
 思うことをきちんと話せる。それは何より尊重されるべきである。ただ、意見を口にしたからと言ってそれが通るとは限らないこともまた事実である。民主主義の悪い点は、過半数と言う中途半端不自由な手法を用いることであるが、それを無視することはもっと独善的で酷い社会である。
 一部メディアでは、「過半数の暴力」的な信じられないような言い回しが踊っているが、それこそ独裁やファシズムを許容しようと思っているのかを問いかけたい。正義が勝つのではない。そもそも正義や絶対的な善など観点が異なれば変わってしまう曖昧な概念である。それを掲げることの無意味さを、子どもならいざ知らず大人が主張するという茶番には付き合いきれない。

 さて、シールズ(SEALDs:http://www.sealds.com/)を好意的に取り上げるマスコミが比較的多いが、私は彼らをさほど評価していない。彼らは義憤に駆られて突然現れたわけでは無く、潜在的にそうした思考を追っていた人たちがタイミングよく取り上げられたのだと考えているからだ。
 上記にも触れたように、日本では様々な主義主張をすることが公共の福祉に反しない範囲で認められている。そして、様々な議論を経て政策の方向を決めることは非常に重要だと思う。ただ、逆に言えばシールズの若者たちの意見もその一要素に過ぎない。それが正義でも決定的な重要な意見とも決まっていない。彼らが取り上げられるのは、その意見が受け入れられるであろう雰囲気が日本国内に広がっている(あるいは広げようと考える)ことがあるからだ。

 もちろん、同じように自分たちの意見が取り上げられるタイミングを待っている人は少なくない。極端なことを言えば、安倍総理自民党総裁につけたのも衆議院で大勝したことも、中国の脅威や韓国の煩わしさを国民が感じ取ったからであると言えなくもない(それが全てではない)。
 様々な意見を持つことは構わないのだが、それが大きな力を持つためには結局のところ国民に広がりが出なければならない。現実に、今の政権は民主党時代以上に国民世論に配慮していると私は思う(与党である自民党の個別の議員は状況が見えていないと思える者もいる)。今の政権が暴走しているという意見(特にメディアが取り上げたがる)があるのは承知しているが、私の判断はそうでないと言うしかないだろう。

 では、なぜここまでメディアが盛り上がれているか。正直に言うと、日頃上手く行かない鬱憤をこう言う舞台で晴らしていると考えている。やり方は多少違うが、暴走族やあるいは在特会が示威行為をするのとも余り変わらない。強いて言えば、メディアが好意的であるという部分が満足度を高めていることであろうか。
 そして、潜在的な不満という意味ではメディアの人間や高齢者の方が高いように見える。一部報道でも、安保法制反対デモに参加する年齢層が非常に高いことが言われている(http://www.news-postseven.com/archives/20120806_135532.html)。若者は、むしろ現政権に親和的な率が高いとされる(特に男性)。

 世の中の閉塞感が、景気の回復が実感として遅々として進まないことをもって、チャンス到来と表出しているのが現在の状況ではないかと思うのだ。しかし、実を言えばそれが主張できることも大切である。不満をきちんと言えること。それが今の日本に失われており取り戻さなければならない重要な要素だと思う。
 別にモンスター○○を推奨するのではない。筋の通らない無茶ぶりではなく、きちんと論理性を持った反論や不満の表出。それも国内のみならず国外に向けてもメッセージも重要だと思う。

 少なくとも、葛藤に対する代償があれば一定の不満解消はできる。不満を溜め続けるようなことよりは、多少なりともマシな状態ではないだろうか。もっとも、それがガス抜きという呼称で呼ばれた瞬間に、新たな不満へと繋がってしまうことが痛し痒しであるが。