Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

失敗・挫折教育

 最近の若者は「我慢ができない」とか、「すぐにキレる」、あるいは「少し叱るとへこたれる」などという言葉を耳にするのは何も今だけの現象ではないだろう。正確な統計データを知っているわけではないが、50年までも似たようなことが言われていただろう。人間は日々成長する。すなわち大人にとっては当たり前のことも、若者からすれば常識でもなんでもない。逆もまた然り。世代間のコミュニケーションは斯くも難しい。
 一方で、それを発する大人たちが一人前だろうかと言われると、これまた難しい。会社の中でも子供のように癇癪を発する大人もまた珍しくはない。若者のマナーを云々という常識は別に、マナーがもっとなっていないのはむしろ高齢者の方だったりするのだから、大人として理想的に育っていない人が随分に多い。

 では、理想的な大人とはいったいどういった人なのだろうか。そのイメージに確たるステレオタイプはない様にも思えるが、メディアのアンケートなどでは理想の上司や理想の父親・母親などを問いかけるものはある。多くな芸能人や政治家、あるいはスポーツ選手などであるが、もちろんその結果が真実を言い当てているとは限らない。限定されたイメージからの判断であり、選定される有名人の実際を皆が知っているわけではないのだから。
 だが、そこで出てくるキーワードには求められる理想の大人に必要とされる要素がちりばめられている。だがその総体は、「こんな人のようになりたい」という憧れて言っても良いだろう。理想的な大人は、誰もがそういう人になりたいと思わせる存在なのだ。

 ところで、理想的な大人にはどうすればなれるのか。ここからは私の個人的なイメージ論であり、明確な根拠を示すことは難しいことを先に謝っておく。私が思う理想的な大人になる一番の道は、「大きな失敗あるいは挫折を経験すること」である。
 そもそも、私たちは失敗しないように普段から注意深く行動し、様々な制限も失敗を産み出さないために設けらていることが多い。子供にも失敗しないために説教をし、時には強く叱り、良い道を歩かせようとする。その親心自体は賞賛に値するが、一生子供を庇護下におけるわけでもないのだから、どこかで子どもは独り立ちしなければならない。その時、最も重要なことは失敗を教訓とできる経験ではないかと思う。

 優れた能力を発揮する人は、様々な場面で成功を手に入れる。まるでスーパーマンのように事を為す姿は、私たちにとっては一種の理想像を示すであろう。だが、能力と人間性は並立しない。もちろん高い能力を持ちながらも同時に高い道徳性や暖かい人間性を持ち合わせる人もいるが、それは成功のみの経験では持ちえない力であると私は考えている。
 成功を続ける人は、もちろんそのための不断の努力と十分な下準備を積み上げているのは言うまでもない。だが、その基準で常に人を見てしまう傾向がある。失敗を知らないからこそ、誰もが同じようにできる筈だと自然に考えてしまう。頭の中では様々な能力を持つ人がいることや、人により個性が異なることは理解している筈ではあるが、少なくとも自分はそれを凌駕していると考えやすい。
 失敗や挫折を知らずとも、人に配慮できる広い心を持つ人も確かにいない訳ではないだろう。だが、誰もがそうで居られる訳ではない。むしろ大部分の人は知らず知らずのうちに天狗になってしまう。自覚ないままにそうなり、また成功者故にそれを指摘されることも少ない。

 失敗や挫折は正直辛いものである。私自身、喜んで経験をしたいとは思わない。ましてやそれが大きなものであれば、言わずもがなであろう。だが、敢えて言いたい。人として本当に強くなること、そして人の痛みが分かるようになること。そのためには、人は挫折を経験しなければならない。その上で再び立ち上がることを知ること。それが最も重要なのではないか。
 若い時、それを知ることなく育ってしまえば、社会に出て初めて受ける試練はとんでもなく大きく感じられてしまうだろうし、失敗や挫折を人生の終わりの様の捉えてしまう。もちろん、犯罪などの反社会的なものを除けばどんな失敗であっても人生が終わる訳ではない。
 失敗を知るということは、再出発と言う道があるということを知ることである。道は一つではない。同じ道を再び進んでも良いし、また別の道を新たに探しても良い。代替案があるということを知っているだけで、私たちは心に余裕を持つことができる。

 そして、心の余裕を持ち得る大人こそが、誰もがなりたいと考える大人ではないか。もちろん、心の余裕を持ているということは、並行して一定の地位や財産を伴うことになり、それが成功者のイメージとクロスする。だが、大切なことは成功者であるかどうかではない。
 失敗や挫折を経験し、その上でそれを乗り越えてきたという自信こそが、私たちが生きていきために最も重要な要素でかつ拠り所なのだと思うのだ。であれば、子どものころから何度も挫折と復活を繰り返す教育の仕組みが重要ではないか。平等とか、失敗しない方法を教え続けても、知識は満たしても精神が成長しない。子供が自力で掴み取る精神的強さも重要だが、それ以上にシステマチックにそれを教育の中に組み込めないか。
 部活動、特に運動部にはそのための仕組みが多少なりとも組み込まれていると私は思う。文化部でも一部の他校と競争するもの(例えば吹奏楽部など)には同じ要素が含まれる。そして、楽しむだけのそれには要素は含まれにくい。

 さて、今の社会はそれ(競争)を経験させるような状況にあるであろうか。もちろん、努力なしにこうした状況を為し得る訳ではない。自己研さんは最低限の条件として存在する。だが、それを続けた人が再出発を夢見れない社会であるのならば、何かを変えなければならないだろう。
 少なくとも、真面目に再出発を図ろうとする人、努力しようとする人が胸を張って生きていける社会。そして、今職場等で苦しんでいる人たちが何らかの心の拠り所を持てるような社会。そのために必要な施策。一億総活躍社会を造るのであれば、挫折を知る教育と、挫折・失敗した人たちを救う仕組みが分かりやすく存在してほしい。
 少なくとも、私個人はそれを宗教に頼りたくはないと考えている。