Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

理想論は蜜の味

 情報の流れのはやい昨今、やや旧聞になってしまうがあいちトリエンナーレを巡るやり取りは有耶無耶になりつつあるか、あるいはその形で幕引きをしようとしているようにも見える。ただ、津田氏(津田大介 - Wikipedia)を被害者として祀り上げる形にならなかったのには少し安堵を感じている。ほとんどは自爆によるものだが。再度被害者としての立場を再度強調し始めていた(津田氏「芸術へのテロに屈した」 - ロイター)のは過去の言動等から意図的な政治活動であったとの評価が固まりつつあることに加え、応援団が逃げ始めた or 責任転嫁し始めた(少女像展示前、知事が津田氏に「本当にやるのか」 : 国内 : 読売新聞オンライン東浩紀氏が謝罪 あいちトリエンナーレ「企画アドバイザー」、今年度の委嘱料辞退を申し出 : J-CASTニュース)ことがあるだろう。まあ、梯子を外されれば鉄砲玉としてはやり切れない。暴走した方と梯子を外した方のどちらが悪いかなどを問うても意味はないが、そのうちキレて様々な暴露が出てくるのではないかと興味津々でもある。まあ、どちらにしても今後芸術分野での津田氏の活躍はないだろう。もっとも、そもそも専門外なのだから当たり前のことではあるが。

 

 さて、アメリカの政治思想の分裂ほどではないが、近ごろ日本でも右派(保守)と左派(革新)の論戦を多く見かけるようになった。もちろん昔からある争いでもあるが、ネットの発展だけではなく多くの一般人がそこに参戦するようになったことが最も大きな違いであろう。そして、youtubeなどを利用して一般人だった人たちが論者としてどんどんと育つに至っている。ところが、その参加する一般人の大部分は保守系(右派)に属しているという状況が顕著である。そういう意味では津田氏は貴重な左派陣営であるが、今回のことでミソがついてしまった。

 左派陣営には、前川喜平氏(前川喜平 - Wikipedia)や古賀茂明氏(古賀茂明 - Wikipedia)などの元官僚も参戦しているが、いずれもこの路線でしか稼ぎを得られないという悲しい状況が見え隠れしている。あるいは、新聞社崩れの大学教員などもいるようだが、左派メディアの助力(執筆機会の提供など)はあるものの、世論に訴求する力は非常に弱い状況にある。辞め方の問題や、本人の政治信条もあるだろうが、論理構成や知識量に劣るため、右派論客としてはそれほど目立つことができないというのがポイントではないだろうか。すなわち日々の糧を稼ぐためには、そういうポジションを取らざるを得ないということだと認識している。まあ、彼らは理想論すら語らず、日々の批判精神のみで自分のポジション確保に必死のようではあるが。

 

 さて、最近の左派(自称リベラル系)識者の言動が理想論過ぎることに関し何度か書いてきたつもりであるが、過去を振り返っても元々革新系の議論は理想論が結構多い。私は別に理想論そのものを否定するつもりはない。理想論は、将来に対する夢を明確にするうえで重要な考え方であり、それが感情的な行動を促す重要なキーとなり得るからである。現実主義は、公平で確実なように感じるが、往々にしてドライで非人間的になりやすい。だからこそ、どんな時代であっても理想論は求められる。

 だが、この理想論というものにも問題がある。それは理想の切り売りである。私は理想を実現するには、そこに至る現実的な考え方がセットになっていないといけないと考えているが、理想を語る多くの人たちはそのことを無視している。理想論は、確かに正論であり悪いものではない。だが、それが実現できない何かを備えているからこそ、理想論なのである。

 

 さて、世の中にはこうした理想論を好む人が一定の割合で必ず存在する。もちろん、ほとんどの人が理想を成就できればよいと考えるだろうが、それを実現するためには容易ならざる努力が必要なことも知っている。世の中そんなに甘くはない。大人になればだれもがわかることである。

 だが、それでも純粋に理想論を追いかけて信じようとする人たちが、私が考える限り3種類いる。まず最初は若者である。社会的経験をあまり積んでいない若者は、思想的な理想論に比較的染まりやすい。もっとも、最近はネット等で様々な情報を得ており必ずしもそうとは言えないが、教育により一定の思考に染まりやすいのは事実であろう。

 二番目は、社会的な不満が大きく高まった人である。経済的なものもあれば、自分の考えを他者が認めないと感じる人などもいるだろう。人生における何らかのもどかしさを感じている人に多いのではないかと思っている。もちろん、同じような状況に置かれたすべての人がそうなるというつもりはない。ルサンチマンの発散に理想論という極論を充てるだ。実は、社会的には成功者と考えらえるような人の中にもそうした人は少なからず存在する。

 そして三番目が、意図してそのような態度をとる人。私がかつて電波芸者あるいは情報芸者(情報芸者 - Alternative Issue言論の責任 - Alternative Issue)と呼称した人たちである。彼らは自分が食べていくためにそのようなポジションを取る。もちろん親和的な思想を持っているのは間違いないだろうが、一定の社会的ニーズがあり、それにより言論やTVでの仕事、時には恒常的な給与がもらえる大学教員にまで上り詰められることが最大の理由だと思う。最近は怪しくなったが、それでも左右の言論を取り上げざるを得ない宿命を帯びたTVや新聞では、一方の発信者が多くなっても必ず逆の立場の存在が求められる。まさにそうしたポジションに見事にはまることができるのだ。特に最近では保守系論陣が充実していることもあって、左派的なポジションには余裕がある。結果、十分な取材や論陣を張れない人でも一定の仕事があるようだ。稼ぐ場所はyoutubeであろうと構わない。儲かればいいのである。

 

 さて、今回書いた蜜の味はそのポジショニングが最大のポイントではあるが、その地位についた論者が語るのは、同じ思想の人たちが快く思う言論である。ただ、これは右派でも左派でも基本的に変わらない。私は、必要があれば右派でも左派でも変わることを信条としているので、思想的な信念がある人たちからは変節漢と罵られてもおかしくない。ただ、こうした状況は一種の共依存状態であると感じている。理想論はその意味において共依存状態を続けるための麻薬のようなものになっている。特に、そこで生み出される言論は感情に起因したものになりやすい。なぜなら論理では説明しがたい心理的な抑圧が起因となっているから。だが、自分の苦境やルサンチマンは自分で解消しなければならない。代償行為では一時的な解消にはなっても、根本的には何も変わらないままでしかない。さが、そのスパイラルに陥ると抜けだすのは非常に難しい。この蜜は実のところ結構怖いのだ。中毒患者と同じように、段々と先鋭的で強烈な言動にならざるを得ないのだから。