Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

子供で居続けること

 ピーターパン症候群(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4)とは精神が肉体年齢に追いついていないような状況を意味し、基本的にネガティブなイメージを持って語られる言葉ではあるが、同時に誰もが抱いている願望でもある。
 「大人になりたくない」と考える理由にはいろいろとあると思うが、主なものとしては責任を負いたくない、他人との協調や調整を行うのが億劫だ、など様々なものがあるだろう。だが、これらの理由を突き詰めて考えてみるといつまでも過程の中に居たいという願望が働いているのではないかと思う。結末を見たくないと言うことである。そもそも大人になると言うこと自体が、人生においては過程であるが子供にとっては結果なのだ。
 そして、成長という結果だけでなく社会において責任を取るという行為も、何かの行為の結果を見ることと同義である。子供で居続けるというのはモラトリアムの中から出たくないという心理の露出である。

 概ね、人生における結果とは苦いものの方が圧倒的に多い。願うような成績が取れず、望むほどの学校に進学できず、あるいは狙いの企業には就職できず、期待していた成果は得られない。成果が常にネガティブとは限らないが、大部分は理想とする自分に結果は追いつかないものなのだ。
 このような挫折を味わい続けるくらいであれば、結果を追わなければ良いではないかと言うことで成長を諦め現実よりも頭の中に存在する理想の自分の周囲を逡巡する。現実との比較をする必要がなければ、挫折を味わわなくても良いのだというスタイルである。そして結果的にはこの姿勢は社会との隔絶を意味する。
 もちろん、「ピーターパン症候群」の人の全てが社会不適合者だと言うつもりはない。普段の生活はそつなくこなしながらも、夢見続けている人は世の中にいくらでもいるではないか。

 では、分別のある大人であればそれでよいかと問われれば、別の意見としていつまでも子供のようで居られることが素晴らしいと言われることもある。主に、夢を持ち続けたりポジティブに生きる様がそのように呼称されるのであろうが、同時にその状況は他者から見れば「ピーターパン症候群」のように夢想の中に生きているとも言えなくはない。
 ただ、大きな違いが両者の間にはある。それは夢を実現するために現実と向き合っているのか否かの姿勢であろう。結局現実を拒否して夢に生きるのと、現実にないものを掴むために必死に現実と戦いながら夢を追いかけるのは、同じように夢を見ながらまるで違うのだ。
 そこにおける子供らしさとは、いつまでも夢を追い続けられる力だと思う。大人として考えれば、可能性の低い夢に対する期待値が低くなることはすぐにわかる。

 もちろん、例えばいつまでも成功しない芸人が夢を追い続ける姿勢を、どちらと評価すればいいのだろうか。私はこれはピーターパン症候群ではないと思う。それは大人になりたくないのではなく、自分の思う形の大人になろうとしている姿なのだ。世の中そうそう上手くいくとは限らないが、少なくとも夢想の中で現実を誤魔化しているわけではない。
 大きな夢にチャレンジすることは、周囲からみれば夢と現実を混同しているようにも見えるだろう。ただ、大人になることを拒否しているわけではなく理想の大人になろうとしている状況そのものは、決して間違っているとは思わない。もちろんこのあたりには微妙なケースも存在し、自分で無理だと思いながらやめられない状況は評価できるものでもない。
 自己心理は明確に分類できるものでもなく、信念と不安の中を何度も揺れ動く。その振動が偏りがない場合はまだよいではないか。その揺れの中心が一方(不安)に偏り始めたとき、チャレンジするという行為の土台が徐々に崩れ始める。

 諦めないということは私は何より尊いことだと思う。もちろん、他者から見れば馬鹿げた行為に見えるかもしれない。いつまでも子供の夢を追いかけていると揶揄されるかもしれない。しかし、その夢を見据えて「努力し続けて」いることについては決して卑下するようなことではない。世間の常識からは外れてしまうだろう。あるいは堅実な職業で一歩一歩小さな夢を積み重ねる方が性格的に向いている人もいるだろう。
 ただ、大きな事業にかける企業家も成功を夢見る芸術家も、困難な道を歩み自らの力と可能性を信じてチャレンジし続けるということは素晴らしいことだと思う。もちろん、大部分は失敗を繰り返す。再び立ち上がれないようなダメージを受ける人もいるだろう。あるいは金銭的な失敗により周囲に迷惑をかけることもあるだろう。
 周囲からみれば迷惑で、世間からみれば滑稽であったとしても、自分が夢を持ち「努力を」続けている限り私は子供と揶揄されても構わないのではないかと思うのだ。もちろん、「俺はまだ本気を出していないだけ」はここに含まれるはずもない。常に本気でチャレンジを続けていることが前提条件であって、惰性になった瞬間に尊さは急速に失われていく。
 すなわちこれは非常に辛い道でもある。ただ、まるで子供のように見えるかもしれないが、それでも困難な道を歩み続ける人を私たちは何故軽蔑できるであろうか。

 子供から大人に脱皮しようとするときの難しさこそが重要であり、その過程における努力や試行錯誤が大人としての意味を形作るのではないだろうか。だとすれば、コンビニエンスに歳のみを重ねて大人を演じていたとしても、そこには浅さが透けて見えはしないか。
 同窓会などで昔の同級生と会えばいつも感じるのだが、姿かたちや物腰は変わっても人物としての本質は少しも変わらない。大人とは、子供の核にいろいろな衣装を纏っているにすぎないのだから。