Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

悪でなければならない

 マスコミが権力の監視をするという立場を持ち出すことについては、決して悪いことではない。ただ、「ペンは剣より強し」と言うもののそれが成立するには一定の前提条件が必要である。その条件は世論が政府などの権力を追い詰められるほどに力を持っていることと、ペンが訴えかける内容がそれなりの真実味を持ち世論がそれに賛同することである。
 世論がメディアの声に賛同しなければペンの力は空回りするし、権力による圧倒的な統制がある状況では力となり得ない。そして、両者が成立するためには国民が政府に対する不満を強く抱いており、その問題点を抉り出す力をメディアが持たなければならない。かつて、テレビで紅白歌合戦が70%もの視聴率を誇っていた時、あるいは三種の神器と呼ばれテレビや冷蔵庫、車やエアコンが望まれた時、社会の意識は同じ方向を向き、声は一つに集約されやすかった。
 だから、メディアに理がある問題点は国民的な賛同を引き起こすことができた。特に一部の権力者たちが暴利を貪っていたような案件では、ペンは確かに強かった。

 しかし、時代は変わり生活は豊かになり人々の好みは分散した。かつてほど世論が一つに向かうことはなくなった。それは豊かさの結果であると私は思うが、メディアにとっては必ずしも都合がよいことではない。明確な言論は徐々に意味を無くしてく。人間社会は複雑な関係により構成されており、紋切り型の言論では全てを説明することはできない。政治においてはイメージ操作でそれが可能なこともあるが、同じ手法を何度も用いることもできなくなった。
 そして、メディアは自らの正義を信じて疑わない故に、明確な敵を求めるようになる。時には政治家、時には官僚、そして時にはゼネコン、時には、、、、、数え切れないほどの敵を作り出してそれを叩くことでメディアは自らの正義を演出し続ける。

 自らを正義と見立てようとすればするほど、そのための敵が必要になる。明確な社会悪が存在すればその立場を振り回すことは容易なのだが、現実には勧善懲悪が成立するようなことは少ない。
水戸黄門たるためにはそれに相応しい悪役が必要であり、その相手を外国に要求するか、日本政府そのものに要求するかが問われている。日本のメディアの多くは、自らの敵として日本政府を置いている。これは、目的や経緯は異なるものの中国や韓国の立場と似ており、それ故に親和性が高くなっている。
 今の政府を直接叩くことが難しければ過去の日本政府を通して叩く。過去が悪かったのだから今も謝れと。それは間接的ではあるが今の権力を敵として認定し、それに勝つこと(謝罪させること)により凱歌を上げようというものに見える。
 その結果見いだされるものは何なのか。それは自らが正義の立場に身を置いているという自己満足である。しかし、これが中途半端なのは多くの人も知るところであろう。正義の地位に自らを置きたいが、だからと言って苦難の道を進みたくはない。権力を叩きたいが、権力と全面戦争するつもりもない。ほとんどの場合ににおいてアリバイ作りのように批判の姿勢を示すのみ。安全な壱に自らを置いて、批判のポーズを形作る。
 だとすれば、それはもはや子供たちの正義ごっこと何も変わらない。そして、なぜか世界は自らの味方だと考えているようである。

 実際には、世界の多くで敵を外国に求める。中国しかり韓国しかり。見事なまでに日本は敵とされているではないか。アメリカは共産主義を敵にしていたが、最近ではテロを敵に置いている。敵を作るというのは非常に都合がよい。少なくとも自分を正義と言えるのだから。
 むしろ日本は国からして敵を作らないように立ち回ってきた。今では中国や韓国に甘かったと批判されてもいるが、私は当時としてはかなり上手く立ち回ってきた方だと思っている。

 さて、メディアが政府を敵としてターゲティングしている限りにおいて、どんなことがあっても悪は日本政府となる。そうでなければ自らを正義と置いてきた前提が崩れてしまう。そのポジション自体がすでに幻のようなものだと言うことに気づかぬ限り、行動に変化が出ることはないだろう。敵を定めて理由を探しているのだから、悪は結果ではなく前提なのだ。