Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

正義の味方症候群

 もう既に何度も繰り返し書いていることではあるが、現在の新聞社が陥っている最大の間違いは感情を記事という形の道具にしていることである。TVについても報道番組なのかバラエティーなのかもわからない曖昧なジャンル(ワイドショーの亜流を含めて)を利用しながら逃げ道を確保した上で同じことを行っている。
 このような手法を使う理由は明らかであり、感情を煽った方が営業・販売上のメリットがあるからなのだが、商売に勤しむ企業ならいざ知らずジャーナリズムを標榜する存在の根幹を浸食する魔の手でもある。以前より徐々に高まり最近はすっかり社会に定着したメディアに対する不信感は、事実の一部を都合よく切り取って報道したり(一部ではそれを「捏造」と呼ぶ)、あるいは感情を前面に押し出しすことにより都合の悪い論理を捻じ曲げようと努力することからきていると考えてよい。
 ネットの広がりと共に手法や姿勢が間接的にも直接的にも検証され暴かれてきたからこそ、見方によれば政治不信を上回るマスコミ不信が発生していると考えるのが妥当であろう。マスコミ自身も薄々(あるいは十分に)気づいているものの、それを覆す方策を見付けられずにいる。正確に言えば見付けられない訳ではないのだが、自己否定に繋がるからこそ踏み出すことができないまま同じ論理を連呼するしか無くなっている。

 なぜ感情を利用しようとするのかは、前述の通り自らが掲げる主張や論理では世論を動かせないと内心考えているからに他ならないが、種々のテクニックは一時的に効果が出ても繰り返せば効き目が弱まるものである。そもそも世論を操作しようと画策する理由は、世論を通じて自らの考えを政府に実行させようとする動きであり、それ故に特定の政党を名指しはしないものの後押しするという形が同時に表出してきた。
 もちろん新聞を始めとするメディアの面々は決してそれが誘導だとは認めないだろうし、その自覚があるかさえ正直言えば疑わしい。こうした無意識の行動こそが「無能な正直者」のように最も厄介なのだが、同時に自制できないままに行動するのは自らに「正義」を確信しているからでもある。
 「正義」の胡散臭さについては何度か書いてきたが、「正義」は特定の立場を代弁する主張である。一定の範囲内における正当性を有するが汎用的なものではあり得ない。考えてみれば、今回の衆議院選挙でもマスコミは早速『投票率が低いのは与党支持ではなく失望』とか、『多数の論理で民意は表せない』などと書き始めているが、民主党が政権を取った時になんと書いていたかを本人達は覚えているのであろうか?
 今回の選挙が消極的選択であることは私も感じるところではある。ただ、かつては類稀なるバランス感覚により日本の与野党の議員数を調整してきた国民は、今回もその判断をしなかった。消極的であるとは言え野党は選択に至らなかったことも事実である。

 多くのメディアは「国民の知る権利」を自らの活動の根拠としている。ただ、多くの場合には都合の良い方便としてこの言葉を利用している。また仮に彼らの方便を認めたとしても、マスコミの活動はあくまで「知る権利」であって「正義(の行使)」は含んでいない。何度も繰り返して申し訳ないが、「正義」は絶対的なものではなくそれを根拠として為される主張を私は懐疑的に見る。「正義」は個人あるいは一定の同一集団においては擬似的に成立しうる概念ではあるが、それでも片側の主張を正当化するためのこじつけに過ぎないのだから。
 そして、メディアが何かを報道しようとすればNHKの本来あるべき姿のように事実のみを淡々と報道するしかなくなる。もちろんそんなことは今のNHKには望むべくもないし、それ以上に国民がそれを期待していない。メディアに求めているのは事実の報道と解釈である。解釈には一定の恣意性が必ず混入し、それ故に(同一アイデンティティーを有する)特定集団内では絶対的な意見となり得るが、情報と趣向が発散した現代社会においてこうした一方向性はもはや望むべくもない。

 かつて、新聞などのメディアは速報性でテレビに劣り、詳細性や厳密性で書籍やネットの専門家によるブログに劣ることを書いたことがある。この複雑な社会の中で一人の記者が専門性を掘り下げることには多大なる困難を伴う。結果として多くの専門家の言葉を集め繋ぎ合わせ、そこに記者の意見を混在することで記事は作成される。最も重要な点は様々な意見を持つ複数の専門家の意見をバランスよく集約する点についてなのだが、気付けば記事内に自らの意図を上手く混入させるための道具として用いるために力を割いている。
 メディアと言っても、公平性や中立性を謳わなければ意思の表明は自由だ。そして「正義」の意識はこの中立性を保とうとする理性を打ち棄てるための誘惑を常に誘いかけてくる。マスコミが知る権利の代弁者たらんとするのもそこに「正義」があると信じているためと考えている。
 確かに国民の知る権利は民主主義国家においては非常に重要である。ただ、単純に知る権利ではなく「正確な情報」を知る権利が求められる。しかし現実には記者等の意図が微妙に封印された加工品としての情報が満ち溢れている。国民の多くも、膨大な情報を自分で分析判断するのは大変なので誰かの意見を自らに取り入れようとするケースが非常に多い。

 そこで、マスコミと国民の間に無意識の共存関係が出来上がっていた。もちろん、マスコミの意見にただ乗りしても問題ないと認識できた時の話である。しかし、国民はマスコミが自らの意見の裏に抱え持つ彼らの「正義」を察して同調していたわけでは無い。膨大な情報処理を、とりあえずミスしないであろうと考えられるものとしてマスコミに委ねていたに過ぎない。
 大部分の国民は原理原則は求めていない。あくまで都合の良い時に都合の良いものを利用したに過ぎない。都合が悪くなったと判断すれば、ドライな話ではあるが容易に切り捨てる。今マスコミ不信があるとすれば、それは国民からのマスコミ切捨てが行われている。切り捨てる理由は、意見を委ねるに適さないと判断したことである。
 しかし、正義を謳うものは自らの正当性を保つために原理原則に拘り続ける。結果として、マスコミ側は自らの行動原理である自ら持つ「正義」を手放せないがために離れようとしている国民に近づくことができない。

 マスコミが自覚すべき原則は、自分たちは決して国民に対する正義の味方に成れないことであろう。一部の人たちを除いて国民が求めるのは結局自らの豊かさであって、建前上同意することもある正義の拠り所ではない。