Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

政策第三局

 今行われている衆議院選挙が、消費税増税を巡る財務省と官邸の争いに端を発したものかは別としても、ここ10年以上話題とされているのが「脱官僚政治」と呼ばれるものである。政治(立法)と官僚組織(行政)は三権の一翼をそれぞれ担う存在であるが、行政のトップは政治家が占めるという意味で政治家の方が見かけでは上位に位置している。他方、政策立案および実行のスペシャリストである官僚組織は、組織力の賜物でもある情報を握るという意味で政治家よりも有利なポジションを保持している。
 言い方が正しいかどうかはわからないが、ある意味において両者は依存し合いながら自己が有利になるようにせめぎ合っても来た。もちろん政治家は選挙に落ちればただの人であり、怒鳴り散らすなどの形式的なものではなく本当に意味で官僚と相対することができる人はそれほど多くはないだろう。だからこそ、「脱官僚」を叫びながら官僚依存にどっぷりとつかった民主党政治は国民に疑惑の目で見られるに至ったのではないかと思う。
 ただ、日本の官僚機構は世界的に見れば非常に優秀である。マスコミや一部のネットは官僚を目の敵にするし、確かに失策と思われる施策も少なからずある。特に高度成長期の成功体験やその結果得られた称賛と自負が、官僚を多少高慢にしてきている面はあるのかもしれない。

 さて、官僚が有能であるとは書いたがこれは様々な懸案を処理する能力についてであって、主に「情報収集」と「情報整理」並びに「決定した事項の執行」についてだと私は思っている。一方で官僚に不足する能力は、「発想」、「決断」については組織上の問題もあり必ず得意とは言えない(個人的なスキルで賄われることもある)。高度成長期をはじめとするイケイケドンドンな時期においては、こうした能力はいかんなく発揮された。あるいはリーマンショック後の落ち込みを低減するというプラクティスにもそれなりに適した対応ができていると考える。無能であれば現在の日本はない。
 要するに、世間一般で言われているようにすべきことが明確な時には非常に有能に働くが、何をすべきかから問われた時には必ずしも有能さを発揮しない。繰り返しになるが、判断や決断の能力を持った個人も官僚の中には間違いなく存在する(もちろん民間にもいるだろう)。ただ、システムとしての官僚機構はそれを必ずしも許すとは限らない。
 そもそも論で言うならば「決断」を担うべきは政治家である。「決断」できない政治家を官僚機構はこれまで数多くフォローしてきた。もちろんフォローするのが官僚の業務であるが、本来求められるのは「決断」のための支援であり「決断」そのものではない。残念ながら、過去においては「決断」できない政治家が多くの「判断」を実質的に官僚に委ねてきた。そして、官僚もそれを委ねられることが自らの価値だと錯覚するに至る。

 しかし、責任を取るのは政治家である。選挙による責任の取り方がどれほど正当性があるかについては様々な考え方もあろうが、少なくとも官僚は容易に責任を取ることはない。稀に政治家(大臣)による官僚組織幹部の更迭が報道されることはあるが、これも大臣の資質により判断の良否は大きく振れる。
 簡単に考えれば、政治家がしっかりすれば丸く収まるのだが、現実にそれを期待するのはなかなか難しい。だとすれば、「脱官僚」という形の対立構造を上手く収束させることができるのであろうか。
 例えば、私たちはマスコミの報道などを見て二項対立を当然と感じているが、実は第三局を作り出すことの方が強制組織を上手く活用できるのではないかと考える。その存在について極東ブログfinalvent氏は「公共マフィア」という言葉を用いて説明している(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/11/post-eca3.html)。そこでは明確に第三局を別物として捉えているわけでは無いが、官僚がそれを担うのは難しいとしながらも、同時に日本の学者がそれを担えるかについても疑問を呈している(と私は読んだが正しいかどうかはわからない)。

 政治家でもなく、官僚でもない別の専門家集団(個人の集まり)が政治家と官僚の橋渡しをすることで、世の中をもっとうまく回すことはできないかと言うことだ。ただ、そのメンバーに求められるスキルは非常に高い。官僚と対等に議論できる能力に加え、政治家と同じ目線で見ることができる総合力が求められる。決して名誉職ではない実践的な存在。
 学識経験者だからと言って容易に担えないし、官僚OBだからといって使えるかどうかはわからない。民間企業経験者であれば良いというものでもない。むしろ、一つを経験しているのではなく複数の立場を経験したことがある人材が求められる(単純に経験すればよいという話でないのは言うまでもない)。
 こう考えてみると、今必要とされているのは総合力なのだ。一時期、政党がシンクタンク(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%AF)を有するべきだという議論が良く出ていた。民間系や様々な専門系のシンクタンクは今でも数多く存在するが、政党シンクタンクはいつの間にかうやむやになってしまったようにも感じられる(目立たないものはあるだろう)。少なくともここ数年それが話題に上った記憶はない。

 ただ、特定の主義主張を論理づけるためのものはここでは求められていない。むしろ政府と独立しながらも政府をサポートするような総合政策を担える機関が重要なのだろうと思う。これまでもシンクタンクとまではいかないまでも似たような会議体を創ろうとしてきたことはあったが、気付けば骨抜きにされていたということはあろう。官僚たたきの一つの根拠でもある。
 また、こうした会議の人選にも疑問が呈されることは少なくない。加えて、斯様な有識者会議は責任を直接的にとることがなく腰掛け的な立場である(本業を別に持ちながらの存在)こと自体が問題でもあった。

 現在ある私が言っている第三局に最も近い存在は日銀総裁ではないかと思う。問題は、それ以外に責任を負いながら専門的知識を駆使して総合的政策に責任を負うものがほとんどいないということである。最大の原因は利益分配の交渉(とそれにつながる政治闘争)を最大の仕事と誤認している政治家の能力不足であるが、さりとて国会議員はまだ地方議員と比べれば随分ましな方であるのもまた事実である。裾野のレベルが低い政治家のレベルが容易に向上することを期待するのは難しい。
 突き詰めれば政治に対する不信や絶望が生み出す境地なのかもしれないが、最低限の舵取りが省庁の功利合戦に終始して迷走するくらいであれば、別の政策第三局が生み出されることを真剣に期待したいと思わずにはいられない。