Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

組織の内部対応崩壊

 学校の先生は、報告書や説明義務で授業に専念できる状況にはない(http://suzumeschool.seesaa.net/article/43295266.html)。公務員は、新たな施策を練るよりも現状を説明するための資料作りに追われる。銀行員は融資業務など企業とのつながりを重視したくとも、それ以上の保身のための資料作りが勤務時間の大半を占める(http://diamond.jp/articles/-/41718)。いずれにしても、お役所病とか大企業病と呼ばれる状況だと思うが、ミスではないという説明責任をするための資料作りに追われるばかりに本業がおろそかになってしまう現状がある。
 これを本人の自覚のなさだとか甘えだと切り捨てることは容易だと思うが、ステレオタイプな責任論で割り切ってよいかどうかはまた話が別である。個別にみれば努力や義務感が不足する者たちもも当然いるだろうが、多くのこうした立場の人たちの本業が圧迫されている理由は実のところ明快だ。社会に対する説明責任が増加したことが根本的な理由ではあろうが、それよりも他の主たる原因が裏には隠れている。

 多くの場合には企業や組織は人員を減らすこと(あるいは非常勤に振り替えるなど)で人件費の削減を講じてきた。しかし、社会的な動向はむしろ対応に際して人の数が必要になるという方向を向いている。コストダウンが必要とされる中で既存社員や職員の給与や雇用条件を守ろうとすれば、結果的には人を減らしていくしかない。人員削減が地位保全の代償として機能しているのだとすれば、本業以外のタスクが降り掛かる現状はまさにその代償故のことになる。
 確かに理想論としては、個々の人員が社会に対するアカウンタビリティを果たすことが最も良い。ところがこの場合、企業や組織としてはその管理ができないため専門部署を作って公開情報を管理するのが一般的だ。この時、こうした情報を管理する(社会との接点となる)セクションが、先生や公務員あるいは銀行員と言った個々のスタッフをフォローするような態勢が取られているならば、それはかなり理想的なスタイルと言って良いと思う。
 しかし、多くの場合にはこうした部門は個人から上げられてきた情報を集約するに留まる。スタンスはどちらかと言えば社会側に立ち、個人に説明責任を要求する。これはこうした専門部署のスタッフの数が根本的に不足しているという面もあるだろうが、結果として個人は社会と直接接することはなくとも説明用の資料に埋もれていく。
 専門性の高い業務などでは、それを理解しない内部の組織に説明して理解をもらう方が、直接社会に対して説明を行うよりも困難なケースもあるだろう。企業を守るという責任はその部分においては果たしていると言えるが、大きな意味で企業の価値を上げるのに役立っているかどうかは未知数である。

 もし、個別の人件費を削減してその分多くの人を雇うことになれば、結果として事務処理を扱う人も増加するだろう。もちろん、それ故の非効率性も現れてくるため人員増が全ての解決策とは言えないだろうが、それでも本業への専念が容易になることは間違いない。
 企業であれ、公的な組織であれ、既存雇用者の権利を守りながら増大する説明責任をカバーするのは容易ではない。すなわち社会情勢を考えるならば、雇用の拡大と給与の低下がセットとなった動きがもっと普通なのだと思う。ワークシェアリングなどの言葉がマスコミを賑わした時期もあったが、これはすなわちワークシェアそのもののではないか。
 しかし、現状においては政府も賃上げの方向を経済界に要望する形で動いている。企業収益が安定的にかつ大幅に上昇すればそれも可能だと思うが、政府が国際競争をコントロールできない状況下では果たしてどれだけの有効性があるかは疑問である。

 さて、企業でも公的組織でも説明責任は社会に対して果たすことが求められている。ところが現実は内部への説明により疲弊してしまい、一方で組織全体としての説明責任は疎かにされているイメージが強い。団体としての説明責任を果たすことがどうあるべきかについては、もう少しじっくりと考えなければならないのだろう。