Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

金持ち批判

 現在の日本が、アベノミクスによりアメリカのような貧富の格差の大きな社会に向かうのではないかという疑念が各所で語られている。確かに、現在の金融緩和のみでは一部のお金を扱うところのみが有利な状況になっているのは間違いないし、一般庶民の給与が直ぐに上がる訳ではないのも事実であろう。
 そもそも、庶民の給与上昇はどちらかと言えば内向きの議論で、企業耐力の向上は海外企業との競争に打ち勝つことを企図したものであって、その方向性には根本的な違いがある。この両者をごちゃ混ぜにして比較することに大きな意味はないし、逆に言えば両者を両方とも成立させると言うことも不可能ではない。

 さて、次にこうした不満は金持ち批判に方向を転じがちだ。私は、金持ち批判そのものには与するつもりはないが、しかしその構図が行政批判と似ている面には少々興味を抱いている。金持ち批判において、その人が努力して成功したことを批判する人は多くはいまい。もちろん、法に触れることを行い不当な利益を上げる事については粛々と法的に罰せられるべきであるが、そうでなければ成功者の存在は社会に光をともすものでもある。
 問題にされなければならないのは、金持ちになった人たちではなくそれに集りそれを温存しようと画策する存在であろう。この構造こそが行政批判においても該当する、公的資金にぶら下がる外郭団体やグループ企業にある。これらについても、社会の雇用を担っていると言うことでは全く価値がないとは言えないが、正当な競争をすることなく多額の報酬を一部の人たちが得ていることには批判があって当然だ。

 多くの場合にはこうした隠れた存在のことを批判すべきものが、金持ち批判や行政批判という形を変えたものとなって露出して方向性が歪められてしまっている。成功者は成功者として、きちんと評価されることは重要である。
 残念ながら、ぶら下がる者たちは社会の表側にはなるべく出ないように振る舞い姿を隠す。あるいは成功者そのものの権威を利用して狼の皮を被り吠え立てる。どちらにしても、新たな成功を生み出そうというスタイルではなく、今自分が手にしているものを守ることに汲々している。あるいは、自分が守られている存在だと言うことすら忘れているケースもある。
 成功者に求められるのはこうした部分に対する節度であろうし、人の威を借る行動を窘めることであろう。だが、何よりも不当にぶら下がると言うことがどれだけ社会に悪影響を与えるかを皆が認識することでもある。

 さて、それでも実際にはこれらは難しい。他人が競争無しに利益を得る事を糾弾する者も、自らがその立場になった時自分を律することは容易ではない。更に、自らの成功に寄り添う身内を正当に排除するというのは非常に難しい。
 何処までが常識的に許されてどこからが不当かを割り切ることが容易では無いことに加え、身内の要求を無下に断れないという情による部分もある。誰しも自分の子は可愛いものなのだ。

 成功者が妬みの種にされるのは感情的には理解できなくもないが、それよりも成功者の威を借る者たちこそが実は一番批判に晒されるべき者だろう。そして、政府支出の無駄などの問題においても最も重要なのは、表にあまり出ることのない税金にぶら下がる存在なのである。矢面は行政であったり政治家であったりが立つことになるが、問題とすべきはその裏側に隠れ続けているものなのだ。