Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

破壊芸術の価値は如何ほど

 従来、芸術は創造することへの価値づけであった。ところがデュシャンマルセル・デュシャン - Wikipedia)以来、創造以外の価値が新たに芸術に与えられたことは社会の広がりや多様性を考えれば間違いではないだろう。それらは現代芸術として花開き、今では多くの芸術家が現代芸術あるいはインスタレーションなどの展示を行う。だが芸術の範疇を広げることが、必ずしもイコール価値のあるものを広げるものではないというのはなんとなく理解できないだろうか。例えば、「滅びの美学」という言葉があるのは事実で、朽ちていくものにも私たちは美しさを感じることがある。だが、それを積極的に壊していくものにどれだけの美があるのかは、私にはなかなか理解できないでいる。美の範疇を広げることは容易だが、広げられた範疇は美の相対的な価値を薄めていく。美にも、感覚に左右する側面もあれば知性に訴えかける部位もある。そのことは感覚的にも理解できる。ただ、知性のみに訴えるものが「美」あるいは「芸術」でどれだけの地位を築けるかにはやや疑問を持っている。それは、芸術ではなく哲学であり主張ではないか。

 

 現代芸術により広げられた芸術の範疇は、社会おける美の価値をむしろ低下させる方向に働いていると感じている。アイドルが乱立することで価値を低下させていったように、あるいは小説が投稿サイトで容易に掲載されるようになったことで小説家の自立が難しくなったように。もちろん、それも社会の一つの流れであるので、こうした流れが生まれることに反対するつもりはない。現代芸術のような社会的な芸術活動が広がった理由として、芸術表現の限界を規定してきた古典への反発という側面は確かにあろう。だが、一方で王道たる芸術に背を向けることに邪道的な価値を見出してしまったとも感じている。試行錯誤としてのそれに意味はあろうが、私は完成した芸術と呼ぶことには疑問を感じる。それは普遍的な価値を持たない、時間限定のものであるのだから。

 いや、主義主張としての芸術表現をすべて否定しようというつもりはない。それも立派な表現の自由である。ただ、その訴えは必ずしも私たちの心を豊かにするわけではないという気持ちを捨てきれない。芸術が社会性を帯びるほどに、それは社会的・政治的主義主張と結びついていく。その傾向が高まるほどに、芸術本来の持つ創造性から離れていくような気がするのである。

 

 以前、愛知トリエンナーレでその問題が表面化した。私はトリエンナーレの取り組みには否定的な意見を持つが、それは政治的な指向性が強く出ていたということに留まらず、本来の芸術が持つべき健全な創造性に背を向けていると考えているからである。芸術が社会的な議論を巻き起こすことは過去からも繰り返され、そのことの是非を問うつもりはない。ただ、それは政治的な主張が見えかくれしない芸術の純粋な是非について語られるべきであり、結果として社会から否定されることも受け入れるような問いかけであることが必要だと思う。トリエンナーレで主催者側に疑問を感じたのは、実は今問題となっている学術会議問題と同じ構造である。自分たちの無辜性を主張するために被害者のポジションを取るべきではないということだ。

 表現の自由も学問の自由も、どちらも問題が生じたことで侵されたわけではない。先品を制作することを止められたわけでもなく、大学を追い出され研究を停止されたわけでもない。自分たちの常識で当然獲得できると考えていた利益を得られなかったに過ぎない。失ったのではなく、自らのプライドが傷つけられたのである。要するに思い通りにいかなかったと癇癪を起しているのだ。システムとして学術会議の今の形が良いかどうかを見直すことは必要だし、状況によっては今回の拒否の理由を公表することもあるだろう。そして、学問分野の偏りを理由に拒否したと政府が回答すれば、それ以上の追求はできなくなる。その上で、この政府判断に対する妥当性の判断は社会が行う。公益を考えた上で、学術会議と言う存在が社会的なバランスを維持できているかどうかという指標において。どう考えても、任命拒否を受けた側の論理は勝てそうにないのだが。そもそも、任命拒否された6名は現在「ヒトラー」などというレッテル張り(Mi2 on Twitter: "こういう人たちって、気に食わないことがあると、必ずヒトラーを引き合いに出すの得意技だよね。こんなことを平気で言う大学教授の方が恐ろしいわ。… ")をすることで、国民からの信用を次々と失い続けている。本当に違法な手続きであると思うのであれば、早々に裁判所に行政訴訟を越せばよい。違法と叫ぶだけで終わるということは、結果的に反対のイメージを与え続ける。このまま進むと、気づけば味方はいなくなるのではないか。

 

 芸術の話に戻ろう。私は破壊の美学や滅びの美学があっても良いと思うが、それは別の何かを棄損するものであってはならないと感じる。もちろん完全にあらゆるものの権利や尊厳を棄損しないというのは無理だが、少なくとも特定の何かをターゲットにすべきではないと思う。もちろん創作は自由であるが公的な補助を受けるには値しないと考える。その上で、破壊や棄損の価値が闊歩する世界にはなってほしくない。狭い世界で趣味として作られる分には自由で良いと思うが、それがメジャーになるような状況は好ましくないと思う。

 現在、高須氏(高須克弥 (@katsuyatakasu) | Twitter)を中心とした大村愛知県知事へのリコール署名運動が進められている。私は以前より、大村氏の政治的な手腕については評価していない(行政的には一定の能力を有しているのだろうが)。むしろ、人気のある河村名古屋市長の尻馬に乗って今の地位を築いたと思っている。愛知県民ではないので、この活動がどうなるかを単に注視するしかないが、県民の力によりリコールが成立するとすれば大きな成果であろう。

 税金に集る存在については、以前より否定的に考えてきた。実際、省庁の外郭団体などもこうした傾向が相当に高く、廃止すべきものも未だに少なからず生き延びていると思う。そして、トリエンナーレ以外の自治体事業にも同じように数多くの税金にぶら下がる存在が数多くいる。それらは、いつの間にかルールの隙間を縫って税金に集る。実はこの問題は表現の自由が焦点ではなく、税金にすり寄りそれを利権とする活動がポイントだと思っているからこそ、私は否定的に捉えている。

 自分たちの活動が社会に必要だと信じているからこそ、芸術に携わる人たちは表現の自由を理由に自らに資金を投じるように主張する。だが、それは関係者が決めるものではなく社会が決めるものである。そして、私は破壊の芸術にはその価値を見出さない。