Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

「変わる」という逃げ

 「変わる」「変える」とは、心地よいしいかにも未来を感じさせる香りを放つ言葉である。現実の私達の多くは「変わらない」現状に不満を抱きながらも、どこかで変わることも畏れている。「変わる」ことそのものを大きく畏れるのではなく、変わることによるデメリットを自ら被るのを畏れるのであり、どこか知らない場所で他者がデメリットを受けたとしても自らがメリットを享受したいと夢想する。
 確かに時代遅れの制度やシステムは自ずと「変わる」ことを期待できるものでは無く、誰かが「変える」べくして行動しなければならない。ところが多くの場合には「変えなければならない」と協調するよりは「変わらなければならない」という言葉を聞く方が多いような気がする。似たような言葉ではあるが、その内実は大きく違うのではないかと感じている。

 考えてみれば、字面上ではあるが「変わる」には明確な主語が存在していない。どちらかと言えば、主体的に関わるわけではないところで変化が進むイメージがある。全ての人たちが関わってと言った良い雰囲気を持ち出されることが多いが、現実には「船頭多くして船山登る」というケースが大部分であろう。企業でもそうだが、大胆な変革は少人数でなければ行えない。合議制は利害調整型の仕組みであって、安定期の組織に用いる仕組みなのだ。
 他方、「変える」という言葉には明らかに主体的に関わっていくという意志が感じられる。この場合、「変える」という一種エゴイスティックな行動を前面に押し出すことになるが、それは相応の責任や批判を負う覚悟がなければ本来言えない言葉でもある。もちろん、小さな組織であればこの言葉を持ち出すのは容易であろう。ただ、組織が大きくなればなるほどに降り掛かる責任と重圧はどんどんと増していく。だから、軽い気持ちで言える言葉ではないのだ。

 「変わる」という雰囲気作りのケースが多いと書いたが、もちろん「変える」ことを高らかに宣言する政治家も少なくない。この宣言は二つの側面で見なければならないが、一つには「変える」ことができる立場に立ちたいという羨望と、そこに至ったという高揚感がある。「変える」と宣言しても多くの人はこのレベルに留まることが多い。何が言いたいのかと言えば、実際には「変える」ことにより良い未来を招き寄せるための努力よりも、その状況に自らが関わっているという雰囲気を味わうことで満足するケースである。
 もちろん志は持っているだろう。しかし、実際に「変えよう」と思えば志の高さだけではどうにもならない高い壁が控えている。この壁を乗り越える苦難を背負うか、一種ヒロイックな雰囲気に溺れるだけでお茶を濁すかという分岐点でもある。このレベルは本来到達点ではなくスタートラインなのだが、そこで少し踏み出しては戻りという感じを見出すことが多い。本人達は大まじめに抵抗勢力のせいにしたり別の論理を持ち出したりと言い訳するが、過去の政治にも見られるようなこうしたパフォーマンスを持ち出すことが先に進めていない一つの証拠かも知れないと思ったりもする。

(レベル1)変わることの畏れ → (レベル2)変える立場に立つことの高揚感 → (レベル3)変えることの現実との対峙

 さて、「変える」ということの難しさを書いてみたが、だからと言って本当に変えるのがよいのかはまた別問題でもある。私は今の成熟した日本社会は決してマイナスが溢れている訳ではないと思っている。もちろん不都合な面も多々あろうが、それは根本的な変革によってのみもたらされるものでは無いと考えているのだ。
 まあ、それでも「変わる」ことを期待するのみよりはまだマシなのかも知れないが。