Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自分らしくと自分が全て

 個性を重視した教育をしようという社会的な声が広がったのは、いつ頃だったのだろうか。日本人は没個性的だと言われるが、決して没個性的ではないと私は思う。自己主張が少ないためにそのように感じられるが、本当に没個性的な国家がここまで多様な文化を広げられるはずはない。世界的に見ても、日本ほど小さな範囲で多様な文化を軋轢無く広げられている国は存在しない。

 もちろん、子供達の個性を潰してしまう様な教育がよいと訳もないが、個性重視を掲げたゆとり教育が巻き戻しているのは、個性を育むにしても基礎的な教養は何より重要であり、更に言えば自分の生き方根幹を定めることによって、人の個性は広がりを見せていくのである。それを曖昧にして何でもやろうと進める教育は、必ずしも個性を育てはしない。

 

 さて、教区の在り方と似た感じのモノとして「自分らしさ」がある。多くの場合には起業によるマーケティングの一環として、あるいは雑誌社などが流行を作り出す戦略として作り出される言葉と私は理解している。そもそも放っておいても自分自身は自分でしかない。自分らしくとは、自分自身を抑圧しなければならない状況からの解放を意味するが、その程度についてはこうしたキャンペーンは告げることはない。人は社会に生きており、全てが自分の思い通りになることはない。無論金持ちなれば出来ることが増え、お金がなければ欲望が募ると言うことはあるかも知れない。だが、自己責任論を言うつもりはないがその状況にあるのも自分の選択や、スタート時点で置かれていた自分の境遇であり、ある意味においてそれも自分らしい状況でもある。

 だから自分らしいとか、自主性とか言う言葉は、ある程度の範囲までは個性の発揮と見なして悪くないが、度を超した瞬間に社会的な不協和音に変わる。個性的かも知れないが付き合いたくない人はいくらでもいるように、社会的な範疇では自分らしすぎると生きていくのが難しくなる。一方で、芸術家などはその突き抜けた存在感が意味を持つこともある。ひととはおおきくちがうからこそ異彩を放ち、その生き方やその作品がアートになることは間違いなく存在する。だが、同様に異彩を放ちながらも誰にも知られずに埋もれていく人がそれ以上に多いことも知っておくと良いだろう。人と違うと言うだけで、新たな社会的価値を獲得することは出来ない。

 

 こうしたことは国家においても言える。現在、民族派が国家の中枢を占め、日本やアメリカに喧嘩を売り始めている韓国などは、まさに「自分らしくあろう」とし過ぎていることから孤立化への道を走っている。実は、過激派や原理主義者達はそうしたモノを極めた存在であり、言い方は悪いが韓国はその道を喜んで選択している様に見える。他者からの賞賛は、孤立ではなく協調により得られるのだが、その当たりが理解出来ていないのは、認識によるプライオリティが私たちと異なるからであろう。

 それは、「自分らしく」の範疇を超えて「自分が全て」と言い切った方がよい様な状況にある。「自分がよいと思うことを他者が認めないのはおかしい」といった独りよがりの考え方は、一般社会でもよく見られる。自分らしくが自分の心の中でだけ成立している時にはよいが、自分がよいと思っているモノを人に勧め始め、さらにはそれとは異なる考えを持つ人を攻撃し始めると、その存在はもはや社会的な害悪といえる。もちろん個別のモノや生き方の良い悪いに関する議論は否定しないが、自分らしさを極めた人や極めようとしている人は得てして攻撃的である。自分らしさを社会に認めてもらいたいからではないだろうかと想像している。そもそも自分らしさを人に認めてもらう必要はあるのだろうか。繰り返すが、自分らしさはある種孤立への道である。だからこそ、多くの人は孤立しない範囲で折り合いを付け、その中で自分なりの個性を発揮するのが一般的なのだ。

 

 こうした自分らしさを主張する多くの人は、社会的に認められたいという願望が非常に強いのではないかと感じている。その方法論として自分らしさを誇張する。だが集団から異質な存在になった存在を、持ち上げる集団はそう多くはない。それを通常は宗教と呼ぶ。そして認められない人たちが集まり、カルト的な行動を始める。

 生物としては異質な存在がいることは、持続可能性の観点で重要ではあるだろう。また、表現や言論の自由は認められるべきだと私も思う。日本は中国(政府の圧力による統制)や韓国(民族による同調圧力)と違いその自由が保障されている分、まだ将来性がある。

 ある大学教授(東大とアメリカの大学で教えた)が書いていた本によれば、日本人の大学生の方が個性的であるという。その理由は、試験のみで入学が決まるためとされる。ステレオタイプな優秀さ(ボランティアや活動)を求めた結果、確かに優秀だが同じ様な考え方や行動の顔ぶれが集まるという訳だ。そう簡単に言い切ることはできないだろうが、自分らしくあることは決して悪くない。だが、それは主張する必要はどこにもないと言うことではないか。