Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自分らしい生き方

自分らしさを求めるという行動は、社会的にも一定の認知を得ているのは間違いない。
槇原敬之の「世界で一つだけの花」がSMAPによりヒットしたのも、オリジナリティを大切にするという感性が社会に強く受け入れられたからであろう。
自分は自分であって他の誰でもないのは紛れもない事実である。逆に言えば自分のミスは自分のみが負えばよいとも受け止められなくはないし、実際「損をするのは自分だから」と言って夢を追い続ける若者は少なくない。
私自身、良い面も悪い面も含めて人とは違う生き方をしてきたと思うし、様々な経験もしてきた。
ただ、こうした風潮には少し気になることがある。

自分らしさは、長い積み重ねの中で生まれるものである。
それは様々な経験をし、多くの努力を重ね、多くの人と交流し、多くの人たちの助力を受けて成立する。ところが、世間一般に言われる自分らしさは全くその努力や過程が省かれている。
むしろ瞬間瞬間の判断を自分らしさと言い換えているような気がするのだ。十分な経験を経ての判断は傾聴に値するであろう。しかし、たいした経験もなく下される判断にどれだけの価値があるのだろうか。

自分らしさとは、確固たる自分を有するに至ったからこそ言える言葉であって、そこに至らぬ人がそれを使うことには大いなる疑問を感じるのだ。軽々しく使われる自分らしさとは、稚拙で感情的な判断のことを正当化するために使われているように感じられると言うことである。
逆に、コマーシャルなどは見事にこのあたりを突いて宣伝している。「あなたらしさ」のための服装や化粧品、あるいはそれを探すための資格取得。。。もちろんそれらが全くの嘘とは思わない。ただ、この時の自分らしさとは何なのだ?
それがよいと判断した自分の判断であり、ましてやコマーシャルに踊らされてそこに気づいたのであるならば、そもそもそれは自分らしさなどではない。自分の下した判断を「自分らしいね」と褒めて貰っているのと同じような状況ではないかと感じる。

少し話を整理しよう。
自分らしさが人生そのものからの言葉だとすれば、それなりの経験無しに自分らしさなど主張することは困難である。私は、本来の自分らしさとはこの生きてきた経験を基に語られる言葉ではないかと思っている。確立した生き方から生まれる自分らしさと言っても良い。
ところがもう一つの自分らしさがある。それは自らの性格に基づく自分らしさである。確かに、それも自分らしいと言うにはふさわしい分類であるかもしれない。ただ、その時の自分らしさは個人としてのらしさではない。「子供らしい」、「可愛らしい」に近いモノであり、「慎重である」、「間が抜けている」、「気が短い」などの典型的な特徴を意味している。もちろんいくつかの特徴が組み合わせられることで個性が出ると言えなくはないが、一定のステレオタイプに乗っかることを自分らしいと評しているように私には感じられるのだ。
そしてだからこそ、コマーシャルにも見事にそれが当てはまる。自分っぽい型を探している人たちには自己のアイデンティティーを表現するに丁度良い道具や方法を見付けられるのであろう。

そうは言えども、別に型を持って自分らしさを表現することは若者であれば一度は経験する道でもある。オリジナリティを作り出すだけの経験がないからこそ、擬似的なそれを求めるわけだ。
そして、ふと考えてみる。私達はそこまでしてなぜ自分らしさを求めなければならないのであろうか。

自分らしさの主張は、見て欲しい自分と、見てもらいたいという孤独感があるのだろう。自分を集団の一部ではなく、確固たる個の存在として認識して欲しい。集団に埋没したくない、特別な存在でいたいというそれである。子供っぽい反応とも取れるそれは、けれども個の主張としては理解できる。問題は、それを主張できる・納得させられるだけの何かをどれだけ持っているかと言うことであろう。

実を言えば十分な人生経験を経た自分らしさも、生きていく上で様々なアイテムやステレオタイプな考え方を自分なりに組み合わせた物であると言うことは、若者のそれと似ている。ただ、より複雑で地に着いたモノであるという違いがあるのみだ。ただ、それがその人にとって自然なものだと誰もが認められということがある。
おそらく人生を経た人は自分らしさをわざわざ主張したりなどはしない。自分らしさは、自分が主張するモノではなく周囲が認めるものである。それを奇抜さなど無理をしたモノで主張するというのは、若者なりの自分を作るきっかけにはなるかもしれないが、多くの場合は人生を経ると共にうち捨てられる。・・・すなわち、自己主張ではあっても自分らしさでも何でもなかったという結論に至る。

「刹那的な判断を自分らしさというのは、自己弁護に過ぎない。」