Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

孤独の時代を生きる

 現代は、コミュニケーションを非常に取りやすい時代となった。別にFace to Faceでなくともコミュニケーションを取るためのツールは山ほどあり、また時代の変化に伴い地縁関係や旧来の上下関係などの慣習は相当に薄れている。もちろんその全てを回避できると言えるほどの理想郷ではないだろうが、どちらにしても私たちが多くの自由を獲得したのは間違いない。私たちは昔と比べると圧倒的な自由を獲得し、その広がりは今後も続いていく、多くの人はそう信じている。少なくとも圧政に打ちひしがれていない国の人にとってはそうである。その国の一つに日本がある。

 

 上述のような開放的な時代ではあるが、どういう訳か自由になるほど私たちは孤立していくようにも思えてならない。自由と孤立は対立概念ではないが、孤立化とは言えないまでも少なからぬ何らかの不自由さを感じる側面もある。団地などにおける独り暮らしの高齢者の問題で孤独死という言葉を知ってから久しく、細菌ではイギリスで孤独問題を担当する専門の大臣(孤独問題担当国務大臣 - Wikipedia)まで生まれている。

 一方で、孤独は悪いものではないという趣旨の書籍が人気を博したり(孤独のすすめ - 人生後半の生き方 感想 五木 寛之 - 読書メーター)、孤独のグルメという漫画も映像化(孤独のグルメ:テレビ東京)され人気作品となった。こうしたブームや発信は、現状の不安に対する反発的な側面が強いように思うが、それだけ孤独という現象が社会的に大きなものになっているという共通認識があるからこその状況であろう。

 孤独がブームになったというよりは、避けらない孤独という現象に私たちがどう向き合うかを問い直している現象、あるいは問いかけなければならない状況にあることを認識したと言って良い。反発するのか、受け入れるのか、あるいは孤独を解消すべく努力するのか、他にも様々な対処や反応があるだろう。時には、孤独が募り社会に害を為す場合もあるかもしれない。自由の広がりが人々の孤独感を増進させているとすれば、それは社会として取り組むべき大きな問題であるのは間違いない。

 

 最近、社会的不安に対する無差別の加害行為がよくニュースを賑わせる。置かれた境遇や心理的な病などに同情できる部分が無い訳ではないが、それでも自分勝手な理由で他人を殺めることを許容出来るはずもない。もっとも、自分勝手に粗暴なふるまいをすることや、それが嵩じて犯罪に走るケースは昔もあった。ただ、その原因について孤独という側面で語られることはそれほど多くない。境遇や性格を分析されるケースがほとんどではないかと感じている。だが、社会として個の確立が叫ばれ、自立することを尊いと理解し、私たちはそれに適応するように仕組みや雰囲気を変えてきた。一方で、社会の細部を見ると孤立に耐えられない数多くの人たちが存在し、その状況に必死に抵抗するため大きな努力を払っている。

 プライバシーの強化は私たちに一定の安心感を与えるが、同時にそこはかない寂しさも提供してくれる。不特定多数に個人情報を暴露されるのはさらさら御免だが、近しい間では共有したい秘密があり、それが嵩じて時にバカッター(バカッター - Wikipedia)と呼ばれて社会的な議論を醸し出たりもする。私たちは一般的に、3~4の近しい関係性(のグループ)を持っているという考え方(鈴木大介 (ルポライター) - Wikipedia)がある。一つは親族(家族)、そしてもう一つは学校(同級生等)や職場といった地域、そして最後がセーフティネットたる社会制度である。これに、地縁的には薄いものの趣味のつながりを加えることもできる時もあるだろう。そして、こうした自己のバックボーンたる集団とのつながりを失っていくほどに私たちは孤独になっていく。こうした孤独化は社会的貧困への序章と言われたりもする。

 この近しいグループの中では、時に自分の秘密を信頼できる相手と共有する。その深さや広さはマチマチだろうが、その連帯感が自分の居場所を作ってくれる。秘密の共有は一種の儀式とも言えるが、そういうバックボーンを持っているからこそ厳しい社会の中で一時的に孤立しても耐えられるという寸法だ。人はまだまだ孤高でいられるほど強くはない。だが、暖かい明るい家族というものを、あるいは優しい地域というものを得られず、あるいは忌避せざるを得ない状況に追い込まれる人は少なくない。

 

 村社会を嫌いプライバシーの確保を懸命に図ってきた私たちは、手に入れた自由という権利とともに個としての責任を負うことになった。「自己責任論」がいろいろな場面で持ち出されるが、ある意味これも自分の問題は自分で解決しろという人間の孤立化を推し進める考え方である。孤独と孤立は同じではないだろうが、どちらにしても弧でいることの覚悟を決めるのは容易なことではない。

 自由意識の広がりは、多くの場合において我慢しないという行動形式を取り社会において表面化する。本来、自由とは公共の福祉(公共の福祉 - Wikipedia)に反しない範囲で認められていると考えているが、個人的な活動レベルでいれば犯罪にでも関与しない限りその境界線は曖昧である。

 そして、私たちは自分たちが快適に暮らすという自由を謳歌し、結果としてそれについていけない多くの人を孤独に追いやっている。独居老人はその典型であるが、一緒に住むと感情的な対立が発生し、あるいは経済的には別に住んでもやっていける。だから、別れて住むのは合理的な判断であるが、それが本当にいいのかはなかなかに分からない。

 

 私の推奨するのは、近隣(徒歩数分の距離)に分かれて住む「スープの冷めない距離での大家族」であるが、現代人がもはや捨てられないプライバシーや権利意識を守りながらも、完全なる孤立を防ぐ生き方を探っていくことが必要ではないかと思う。いや、これはあくまで理想論だ。転勤族にそんなことを強要することなどできる筈もない。

 

 どちらにしても、孤独は社会における埋伏された毒の様なものである。それから目を背け続けると、私たちは今以上に大きな社会的代償を払わなければならなくなるだろうと思う。資本主義の息つく先に、あるいはそれの終焉の先にあるのは、意外と家族や地域の復興かも知れない。