Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

自己排除の思考

 結婚に踏み切れない人が増えていることが日本における人口減少の最大の要因であるが、その理由としてネットやメディアでは様々な要因が挙げられている。例えば、年収が低い、結婚生活に希望が持てない、異性との交流に対する煩わしさ、、、etc.。
 いずれの理由も一見すれば「なるほど、そうかもしれない」と思わせる説得力を有しているが、よくよく考えれば必ずしも決定的な理由ではないことに気づく。『しない』理由が明確にあるのではなく、『できない』という受動的な理由を後付でこじつけているような匂いが漂ってくる。また、相手に対する高いハードルを敢えて設けることで、婚姻という大きなイベントから実質的に逃げているのではないかと考えたりもする。

 例えば、年収が低くともマイルドヤンキー(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC)と規定されるようなスタイルの生活も可能であり、これが理想であるとは言わないものの結婚を阻害する決定的な要因ではないことの一つの結論でもあるように私は思う。
 だからと言って世間を見渡せば多くの人が結婚に二の足を踏んでいる現実があり、だからこそ現代社会において結婚のハードルを上げている本当の理由は何なのだろうかが常々気になってきた。もっとも「これこそが問題の核心だ!」といった明確な要因があるはずもなく、いくつもの社会環境や意識の変化が輻輳して現在の状況を生み出していることは想像に難くない。

 それでも私は複合した要因の影響だけではなく、多くの人の意識の中でじわじわと「排除するため」の思考が広がっているのではないかと想像している。特に根拠があるわけでは無く直感に基づく内容で大変恐縮ではあるが少し考えを進めてみたい。
 なおここで「排除」と言う言葉を用いているが、排除にも「積極的排除」と「消極的排除」が存在する。いじめや村八分のように特定の人間を排除する形式もあれば、自らが関わりを薄くしていくような特定の相手を明確に定めない排除もある。結果的には相手を遠ざけるのだが、露骨に目の前から取り除くのであなく関わりを薄くしていこうとする形である。

 話は少し飛ぶが、最近は女性側も結婚相手としてかつてのバブル時代のような「三高」を掲げる人はかなり少なくなったと思う。ところが、それに替わる「三普通」などという表現が出ているらしい(http://www.cyzowoman.com/2015/03/post_15290.html)。もっとも、この表現に求められる「普通」が既に全く普通でないという話もあり、言葉そのものに素直に考えても大したメリットはない。
 「三高」の時代よりは若干求めるレベルは下がったが、それは社会の収縮と同じステップを歩んでおり、基本的に高いステイタスを求める状況に変化はないという意見である。夢を抱くことが悪いとは思わないが、夢と心中することが幸せかどうかはわからない。
 ただ、「三普通」などというキャッチコピーは社会を俯瞰する時の一例であって、こうした感覚が広く社会に蔓延している筈もなく、あくまでメディアを賑わせるイベントのようなものでしかない。それは理解した上であっても、このような概念が表面に浮き上がってくる雰囲気について考える時、社会において良い伴侶を見つけるよりは見つけないためのハードルを自らに課している人が多いのではないかとすら感じてしまうのだ。

 異性と付き合うことの煩わしさを語る時に、様々な配慮がへの煩わしさを訴える例をよく見かける(http://ren-shinri.net/6/5.htmlhttp://goodluckjapan.com/human/)。しかしながら、こうした煩雑さは別に異性間だけではなく同性間や職場の同僚などの場合も差異はない。むしろ、職場での付き合いは逃げられない面があるが、選択権を有する異性との付き合いは逃げることが可能だという面で異なる。恋愛の方が若干自由度が高いのである。
 また、社交的な人と内向的な人がいるのは避けようがないことだと思うが、内向的だからと言って付き合いができない訳ではない。昔はお見合い制度が今よりも随分一般的であったことが、シャイな人たちを結び付ける橋渡しをしていたんだろうと感じているが、今でも一部に残っているものの多くは友人関係がそれを代替している。

 肉食系のガツガツ行くタイプはどの時代にも存在し、こうした人たちは恋愛のライバルを排除するために努力するが、草食系と言う言葉が見事に表すように心理的軋轢を畏れて自らが身を引く「自己排除」が増えているのかもしれないと思う。
 面倒だとか、いろいろな理由を付けるのはこの「自己排除」を正当化するための後付の論理ではないかと言うのが私が今考えている現状だ。もちろん、繰り返しになるが個々が抱える様々な不都合たる要因が存在するであろうことは間違いない。ただ、それを積み重ねることに安住しているイメージと言えるだろうか。都合が悪い理由を並べ立てて、チャレンジしない状況が広がっていると言っても良い。
 この感覚は、答えを出すことを畏れているということであり、恋愛以外の場面でも似たような動向は窺い知れるかもしれない。それが社会の草食化と言った形で表出しているのではないだろうか。

 実は、私たちの生活は「安定」と「刺激」により形作られている。社会は、平均において「刺激」よりも「安定」を求めているのだとすれば、政治や経済の様々な面でも縮小均衡を指向するような意見が出てくることもわからなくはない。
 「低収入だが、安定している。」という概念は古くは公務員を指すものであったが、バブルの少し前からは公務員は高収入の部類に入るようになっている。そして、安定を実現するために結婚しないという選択を選ぶ人が多いのだとすれば、昔形作られた概念である「幸せな家庭」はもはや安定を意味しないのであろうか。
 結婚し家族を持つことは、本来種を残すという本能だけではなくリスク回避のために行われてきたことでもある。男女の役割差を性差別と問題視する向きも多いが、お互いが補いながら生き抜くための確率を上げているのが婚姻や家族の一つの役目であろう。
 もちろんそれでも不足するために、社会では様々な制度が更なるセーフティーネットとして準備された。結婚しない方が安定を享受できるのだとすれば、現在社会の仕組みはある意味で成功し始めていると言えなくもない。

 他人と距離を置いても生きていける社会。寄り添わなくても人生を全うできる社会。元々は、それが叶わない人のためのサポート機能として準備されたはずのものが、いつの間にかストレスに対する逃げ口になっていたとすれば、それは本当に目指していた状態なのかと少々疑問を抱いてしまう。
 現状を甘えと呼ぶのは簡単ではあるが、精神論では状況を打開できるものでもないだろう。この問題は生活保護や税金にぶら下がる様々な機関の持っている構図と結構似ている。社会における脱落者や制度の隙間を埋めるための方策が、本来サポートを必要としないはずの人をむしろ引き寄せてしまう状況を言う。
 これを必要悪として許容するのか、不合理として制度改正を試みるのかは意見がわかれるところであろうが、私はどんな制度も永遠に続けることはできないと思っているので、常々その時々の改正を目指すのが正しいと考える。だとすれば、低位安定を指向する現代社会をどのように変えていくべきかを考えなければならないということになろう。

 自己を社会から排除する傾向は、こうした安住のシステムにより生み出されやすい。他人を傷つけることを畏れるというのは、同時に他人を傷つけないという選択が可能であるということでもある。それが自分自身をFO(フェードアウト)させるということであっても、低位安定が確保できるというあまり根拠のない理由が基となっている。
 結婚に踏み出さない人が増加しているのは、踏み出さなくとも「なんとかなる」状況がそこにあることによる。もちろん結婚しない自由は存在する。しかし、積極的な選択でそれを目指すのであればいざ知らず、消極的にその権利を主張することに如何ほどの価値があるのだろうか。

 先ほど触れたことと重なるが、人間は弱い存在であって楽ができるポジションがあればそこへ流されやすい。もちろん自己に厳しく流されない人も一定数はいるだろう。しかし、大きな目で見れば流されてしまう人が大部分であろうことは予想できるし、こうした人たちを精神論で何とかすることも難しい。
 平穏無事が自分にとって楽であると認識すれば、チャレンジやその先にある大いなる可能性を容易に捨ててしまう。刹那楽的だと評しても良いが、私もおそらく目の前にある安楽を選択しがちである。
 ただ、こうした安易な選択が近視眼的には個人にメリットを与えても、長期的にはそれを上回るデメリットを与えることを、社会や構成員たる人々はもっと認識しなければならない。

 これまで、個人的には自己責任論はそれほど好きではなかった。これまで、努力してこなかった人も救われるべきだと考えてきた。ある意味においてその考えは今も間違っていないと思う。ただ、こうしたシステムが大きな社会において同時にチャレンジしない人を数多く生み出す「ぬるま湯」のような存在になっていたとすれば、私たちはどう考えるべきなのだろうか。
 そこに生死を賭けさせるほどの熾烈さが必要とは思わないが、それを明確に認識させるための何かが必要な時期に来ているのではないだろうかと考えたりしている。それが教育により成し遂げられるのか、穏やかな社会を後退させることにより成し遂げられるのかはわからない。それでも、緩やかに死に行くような現状を認識することは重要ではないだろうか。