Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

つながり

 学校教育とは、社会が強制的に人と人の繋がりを作る仕組みである。学校の存在価値については橋下市長がメディアを交えて論戦を挑んだこともあり学習に力点を置いて捉えられがちではあるが、学習指導以外の多彩な面において集団生活故の関係性を学ぶ重要な機会である。もちろん、精神的に未熟な段階での集団生活だからトラブルも生じ、時にはいじめも発生するであろうがだからと言って個別に学習のみすれば良いという訳ではない。家族の規模が小さくなればなるほどに、社会性を学ぶ場所は家庭から学校に大きくシフトした。
 学習以外の人間関係は、インフルエンザウイルスのワクチン接種と同様に頻繁ではないにしても時々障害を引き起こすことがある。だからと言って、それを完全に取りやめてしまうことは社会全体としては望ましくない。
 学校という環境は、住んでいる地域とか基準の明確でないクラス分けにより集団が構成されるが、それでも卒業後は懐かしい面々となり人生の記憶の大きな範囲を占めることとなる。仮に小学校から高校まで進学するとすれば、スキップのない現状では最低でも12年間はこうした学校生活を送ることになる。受験して学校を選択することは確かにできるが、それ以外の友人関係や環境は大いなる偶然性に支配されている。人によっては苦痛と感じることもあるとは思うのだが、それとて長い時間を経れば懐かしい記憶として和らぐこともあるだろう。どちらにしても、学校生活は私達に家族や親族あるいは近所づきあい以外の関係があることを身をもって体験させてくれる。

 しかし、社会人になると強制性は学校と比べて格段に落ちるが新たな人間関係の場所ができる。もちろん学習の場ではなく、徐々に仕事が人間関係のつながりの中心を占めるようになる。懐かしい同窓会は、記憶という糸による断片的なつながりを留めはするものの、徐々に疎遠となり一部を除いて儀礼的なものに変化していく。若い内に異業種交流会などを盛んに求めたりクラブ活動やその他の交流を求めるのは、異性を探すという意味以外にも学校関係の延長線上的に仕事以外の総合的な関わりを求める心があるからかも知れない。結婚というイベントに目が行きがちではあるが、学校的な人のつながりが恋しいという面もあるのであろう。
 もちろん、仕事に没頭すればそんなことにうつつを抜かせるほどの余裕は生まれないのだろうし、年齢を経るごとに通常は仕事が人間関係の繋がりの主体となっていく。それでも、力のある人やバイタリティのある人たちは、自身の能力やポストを活用することで仕事関係の枠を拡大でき新たな人とのつながりを得ることができるが、それが叶わない人も存在する。その延長線上であろうが、こんな話が出ていた。
仕事、友達、配偶者なしの20〜59歳「SNEP」が今急増しているワケ〈週刊朝日〉(http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131115-00000006-sasahi-soci

 NEETに搦めての新しい概念であって人とのつながりの希薄さを訴えようとしているのが見て取れるが、別にこうした状況は新しいものでも何でもない。仮にかつて配偶者があったとしても現状においてなければ同じことだし、年齢層は違うが孤独死を迎える老人たちと何が違うのであろうか。NEETなネットや家族につながりを残しているが、SNEPはそれを保持していないと分類したからと言って、問題を分けて考えるようなものではないと私は思う。
 強いてあげるとすれば、家族、血縁、地域・・・・これらの強制的なつながりは疎んじられ、徐々に崩壊しつつある現在において、問題は人と人のつながりという最低限の心理的セーフティーネットが薄れていることを問題とすべきではないか。

 家族のセーフティネットを主導的か受動的かは別にしても失ってしまった場合には、現状において仕事と趣味が人間的なつながりをフォローする。ネット依存も、ゲーム依存も、一定の同好者達とのコミュニティを通じて最低限の人間的なつながりを得ている。もちろんそれにより満たされているとは限らないが、仕事との両立はバランスが難しい。
 家族や地域社会のつながりなどは学校と同じく変えようのない強制的なつながりである。他方、仕事にしても趣味のつながりにしても、(困難性を持ってはいるものの)選択の自由があるという意味で家族などとは異なる。ただ、長年の付き合いを経るとそれが徐々に家族的になりがちなのは否めない。仮に双方を失うようなことがあれば、新たな趣味を見つけることなどがあるだろうが年齢を重ねたときにそれがどれくらい可能かは難しい。特に心の余裕を失っているとすれば困難性が高まると考える。
 こうした状況下では、仮に中高年での孤独が現状では若い世代に偏りがちな宗教という繋がりを求めることがあるのではないだろうか。SNEPを個別に評価するべきかどうかは現状では何とも言えないが、仮にこうした人たちが社会的に漂流し始めたとすれば、対応を考えなければならないであろう。