Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

誰に許されたいか

宗教なら神や仏に許しを請い、社会においてはミスをして迷惑をかけた人から許されたい。それは、失敗したり悪いことをしたことを悔いたいという気持ち以上に、自分を受け入れて欲しいという感情が垣間見える。
社会のみならず自己の存在そのものが不確かに感じられるこの時代、自分の居場所を探すことが何かに受け入れてもらうことであり、許しを望むと言うことはその帰属を認められていると自己認識する行為でもある。人々の生活で言えば、最初に帰属を感じるのは家族であり次に地域の拠点たる学校などがある。私達は何かに属することで精神の安定を図ろうとし、その帰属を続けるために許しを請う。この場合の許しは自分の意図せざる結果が現れてしまったことに対するものであり、謝罪行動ではあるが同時に自己の帰属が維持されるかどうかを確認している部分もある。そもそも謝罪は何のために行われるかと考えれば、それにより集団から追放されてしまうことを避けるためなのだから。

しかし、実際には帰属する集団以外への許しを求めるものも少なくない。むしろ、家族や学校や会社には求められないそれを望む者たちは潜在的に数多く存在している。それが宗教的な道に走ることになるのか、同じような悩みを抱える者たちが集まって傷をなめ合うような事態に陥るのか、それともそこまで深刻ではなく時々に応じて社会のいろいろなところにある「何か」を利用して済ますのか。書籍を見れば自己肯定を謳う書籍は溢れているし、ネット見ても許しを示しあるいは何も悪くないと優しい言葉をかけるところも容易に見付けられる。
それは帰属する集団における自己よりは、大きな社会におけるちっぽけな自己を如何に位置づけるかを悩むが故の放浪であり、他律的には答えの出ない問題だからこその許しが社会に溢れているようにも見える。それは許されたいのではなく、許すという判断を他者に委ねたいのである。

そもそも帰属する集団に大きな不利益を与えたならば、許しとはその帰属をかけたギリギリのものであるはずだが、社会全体という漠然とした集団においてはその意識がそもそも希薄であり、許しを請う必要性も低くなりがちだ。むしろ許しの代わりの法律であるとか規則が、本来の許しの代償としての処罰を半自動的に実施する仕組みとなっている。すなわち追放される可能性が著しく低いそれであり、それ故に代償の基であるはずの許しが不確実なものとなっている。
これは、人を帰属させる集団の力が衰えたことも関係しているのかも知れない。家族、学校、会社、地域、これらの集団が帰属する者たちに十分な許しを与えられる権力があった時には、それが重苦しさに繋がりながらも同時に許されるに十分な価値も存在した。ところが現代の日本では神通力を失って既に久しい。
法的には裁かれても、社会集団からのバッシングや差別が止むわけではない。そして、それは何も罪を犯した人間のみが受けるものではない。むしろ、自分に十分な覚えがないにも関わらず(閉鎖)社会的なバッシングを受けるとすれば、その救いを誰に求めればいいのであろう。

帰属集団の力の喪失に伴い個が確立されているのであれば問題なかったかも知れない。しかし、全ての人が十分に思うような個を確立できるわけではない。結果的に、許されたいという気持ちは帰属集団から与えられない自らの存在感の裏返しであり、自己の存在を自己で納得できないという現状でもある。自分で自分の存在や行動の正当性を納得できればそれでいいはずなのだ。
私達は、建前上自分が正当に生きていけるという権利を法により与えられているはずではあるが、実態としては必ずしもそうではない。あるいは、能力の差などにより自分で自分を責めてしまうような状態に陥ることも少なくない。結局のところ自分自身に許しを与えたいのができないからこそ、私達は誰かに許されたいと感じざるにはいられない。帰属ではなく存在そのものの正当性を他者に委ねるということは、普通に考えればおかしな話である。
私達は、所属する様々な組織の窮屈な締め付けを嫌い組織よりも個の力を法的に強くし続けてきた。その結果自らの所在を失っている人が多く生まれているとするならば、元に戻せとは言わないものの何らかの対応を考えた方が良いのかも知れない。