学者の世間知らず
学術会議問題について既に何度かに分けて私の考えは表明しているので繰り返すつもりはないが、ニュースなどを見ても大学教員と一般社会の持つ常識の違いについては多くの人が疑念を感じているのではないだろうか。もちろん大学教員にもいろいろな経歴の人がおり、民間での経験を重ねて社会常識をよく理解した人もいれば、大学に最初からずっとと言う巡視培養の人もいる。もっとも、民間から来たから必ずしも社会常識に長けているとは限らず、世間の情報を知り尽くしたマスコミ出身の教員も人文系には少なくないが、彼らの常識が社会の常識かと聞かれれば容易に首肯し難いケースもよく見かける。むしろ政治的な主義主張に凝り固まっているのでは、と思えるケースすらあるのだから。
基本的に大学教員である研究者は、新しいもの(理論、現象、状況、物質、機構、その他)を見つけ、それを活用できる形にすることを生業とする。教育は、こうした新規性を見出すための知識や方法、その他の過程を学生に教えていくものである。それはすなわちオンリーワンになることが求められており、それ故に協調性は必ずしも必須ではない。新しいものを見つけるからこそ社会とは異なるものを見いだし、社会と異なる行動を取る事で至る道筋もある。要するに常識がない方が良いこともあるだろう。このあたりは、結果が全てであるため割りきったことを書くのは難しい。
とは言え、私が知る多くのすぐれた大学教員たちは社会常識をわきまえ人格的にも優れた人が多い。それは公的な立場からの意見を求められることが多いからでもあると思うが、それと同時に偏見のない目で見ることを常としているからではないかと考える。逆に言えば、社会(例えば自治体等)での専門家として資質を認められないような人も少なからず存在し、益々社会的な常識から疎遠になりやすい。もちろん、だからと言ってその人が優れた研究成果を上げられないとは言わないが。常識者が新しい発見をするわけではないのは、先ほども触れたとおりである。
社会との接点を除けば大学教員は常識を知らない方であるという意見はある程度正しい。ただ、同じようなことは大企業病の大手企業社員にも、公務員にも言えることなので、大学教員だからと言って特別と言うほどかけ離れているわけではない。バランスを持っている人はどの業界でもいて、バランスを欠いている人も一定数いるものである。しいて言えば、大学では医薬理工系の教員は比較的学術会議問題などに声高の主張しないケースが多いだろうし、人文社会系の教員の方が興味を持ち政府に反対している人が多いのではないか。まあこれは私の個人的な憶測であり、きちんと調べたものではないのだが。
と言うのも、私自身も研究に携わるものとしてそうだが、理系研究者はそんなことはどうでも良いと思っている人の方が多い(全てとは言わない)ように思うのだ。自分の研究成果は研究結果として導き出されるものであり、誰かから勝ち取り獲得するものではない。すなわち、自分との闘いの側面が高い。これも私の偏見ではあるが、文系では論争をして自分の地位を勝ち取る側面があるように感じている。勝ち取るというのは語弊があるかもしれないが、どちらがメインストリームに乗るのかという話はよく聞く。例えば憲法学とか法学、あるいは政治学や宗教学などは既に存在しているものを扱っている。基本的に新しい技術や原理を生み出すのではなく、またそれが誰の目にも明らかではないからである。概念や原理を構築することはあっても、それは目に見えるものではなく観念的なものに限定される。もちろん理系でも新しい概念や理論、あるいは物質や現象の真偽は問われるので似ているが、それは論によってというよりは真実の解明により行われる。
文系の研究を否定してるわけではないが、自らの学界における地位を築き上げるのは論の正当性論争によるとすれば、理系のそれとはかなり異なる。また、仮に学術的には何らかの主義主張があっても良いと思うが、研究者として政治活動とは一線を引いた存在であるべきだとも思う。学術に政治を持ち込むことは、政治が学術を利用するのと同じくらい大学教員としてのバランスを欠いている。個人的立場でそれを行うことは自由だが、その結果受ける評価は甘んじて受けるべきだろう。その線引きが難しいのは文系特有のことなのかもしれないが、学術会議問題で任命拒否された人たちに同情の念を感じない最大の理由はそこにある。
ただ、理系文系に関わらず政治的な情報(特に国際情勢)に関する鈍感さは、日本社会と同じように大学教員も保有している。むしろ研究できるのであればそういうことは全く気にかけないというのが実情だ。米中の紛争が今後激化すれば、中国の大学で研究するというのは非常に高いリスクを負うことになるだろう。近日中に中国との共同研究は先端技術分野において困難になるだろうし、下手すれば出張等も難しくなる可能性は低くない。大学教員の基本的思考は、自分の好きな研究をさせてくれる(資金をくれる=飯を食える)場所ならどこにでも行くという感じがある。これはおそらく昔から変わっていない。ただ、それが国際的な政治状況により左右されることに対し、もう少し敏感にならなければならないとは思う。
学者だけが世間を知らないわけではないし、学者には政治や行政からの影響に対して拒絶反応を示す人が少なくないのは承知しているが、私は大学教員がそれほど飛びぬけた特別な存在とは思ってい無し、そのようなエリート意識を持っていることに大きな問題があると思っている。実際、いろいろな試練を潜り抜けて教授に昇進した人で、そのことに高いプライドを持っている人に幾度もであったが、その人たちのプライド故に言う言葉は私に響いたことはない。今回の学術会議問題で任命拒否を受けた人たちの言動にも非常によく似た気配を感じるのは偶然だろうか。
それこそが上級国民として社会から批判を受けるような存在であると自ら主張しているように思うのだが。
学者が世間を知らないという事実を確認するよりも、自分たちが社会的に尊敬を受けるのは自分個人ではなくその地位に付随したものである人が多いことをもっと自覚すべきであろう。そして、仮に教授の地位についてもそれが到達点ではなく、学界の重鎮になってもそこから何をするかが問われていると考えるべきではないか。こうした点についてオタク的な気質の強い理系研究者の方が、鈍感であるが故にバランスが取れているように思う。
私は学術会議そのものを無くしてしまうのが良いとは思わないが、政治的な主義主張とは離れた組織には変わってほしいと思う。今回の問題はそのための奇貨とすべきであろう。