Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

何故専門家の言葉が響かなくなったのか

 テレビ番組には毎度毎度、数多くの多彩な専門家が登場するが、本当の意味で信頼できると思える人はそれほど多くない。番組を面白おかしく盛り上げるためであったり、あるいは極端な持論を主張する人たちが数多く登場し、世論に感情的な反応を振りまいていく。確かにその専門で一定の実績を有する専門家なのだろうが、出演時の言動は凡そエンターテインメント的であって、真面目な議論による安心を与えてくれない。そんないびつな状況ではあっても、やはり専門家という肩書は一定の説得力を持つ。大学教授であったり(自称のみではない)在野の学者であったり、あるいは研究機関に所属していたり。確かにこれらの地位は、何の努力もなしに就けるような立場ではないのだから、過去の努力はそれなりに正当に評価していると考えてよい。だが考えてみれば、専門家に必要なのは過去の栄光ではなく現在の知識と分析力・判断力である。

 もちろん、今回のコロナ騒動のような未知の存在に対して的確な答えなど容易にできるはずもないが、わかることとわからないことの線引きが曖昧であることも一つの要因ではないかと思う。専門家は自らの専門には深い造詣を持っているが、それを離れれば素人に毛が生えたようなものでしかない。だが、専門家として登場している以上何かを言わなければならない。専門家ですらないコメンテーターのくだらない言葉には、ほとんど意味を感じることはないが、にわか専門家もまたそれに追随している。

 

 とは言え私も一応特定分野の専門家の端くれであり、今回のような未知の騒動に対して専門外である自分がどれだけ的確な説明や解説ができるかと問われれば、かなり心もとないことは自覚している。様々な情報を集め、分析し納得できる答えを探すことは続けているが、あくまで専門外の素人としてのそれである。自分が得意としている専門分野には自信を持っているが、社会にあまたある事象を上手く解説できるかどうかはなかなかに難題だ。基本的な構図を読み解くことはある程度できても、専門的な知識に疎いことが常に付きまとう。

  日本人は、一般的に事実そのものよりも話をする人の方を信じるという傾向があるとされる。情報ソースに当たり何が正しいかをすべて逐一確認するのは非常に大変な作業であり、より確かな発言をすると自分が考える人の意見を参考にすることは私も多い。時間的な余裕があればソースまで確認するが、興味を抱く量に比して使える時間が限られているため、合理的な対処をしようとするわけだ。

 ただ、正しくは自分でソース情報に当たって自分で判断すべきだろうし、なるべく客観的に物事を見るべきだとは思う。それがままならない現状があるのは、なんとも歯がゆいところでもある。そして、判断の参考とする信じられると思える人をどのように選定するかという作業が必要になる。多くの場合、普段の自分と考え方(価値観)が似ているというのが理由の一つにあるのだろう。論理的で客観的な意見であっても、自分の考え方を異なればなかなかに受け入れがたいものである。例えば、非常に客観的に見える専門家でも、自分が許せないと思う一つの大きな意見が異なれば、その専門家を信じたくなくなっていく。残りの大部分の意見には賛同できるとしても。これは非常に不思議な現象である。本来は是々非々で判断すべきなのに。

 

 さて、かなり話がそれてしまったので戻そう。世の中で、専門家が信用されづらくなった理由には以下の3つの理由があると私は考えている。

① 問題の複雑さ

② 期待値の高さ(一般的な知識の広がり)

③ 専門への深化・特化

 社会問題は、昔と比べて非常に複雑になった。それは社会が多様化してきたという側面もあるが、単純な問題の多くは既に先人により解決されてきたということもある。そして残された問題たちは、一つの専門だけでは解決に導けないほどに難解なのだ。一分野の専門家だけでは、適切な答えを導けない状況に今はなっている。その原因の一つには経済問題もあるが、理想と現実の間にある適切な解を取ることの意義を、複数の利害関係者たちの間にある中庸な選択の意味を上手く解き明かせていないし、説明もできてない。

 一方で、国民はネットという一面的に優れた情報ツールを得て、それなりの知識を容易に得られるようになった。私もこんなところでいろいろと書き散らせるのは、まさにネットのおかげである。図書館や新聞のみで情報を得ているとすれば、社会に対する大きなイメージを今のように描けてはいないだろう。だが、そのことが専門家に対する過度の期待値を与えるようになった。自分ですらこの程度は知っているのだから、専門家ならもっとスマートに答えを出せてしかるべき。そんな一般的なイメージが広がれば、専門家は非常につらい立場に追い込まれる。一億総評論家時代において、普段から興味のある分野については、専門家に対するハードルがかなり高くなっている。結果として希少な情報を持っている専門家が優遇されやすくなる。

 さらには、こうした状況から逃れようとすれば、あるいはあまたの専門家の中で自分なりのオリジナリティを追いかけようとすれば、どんどんと狭い領域に閉じこもっていく傾向が生まれる。専門を深化させるという意味ではよいが、同時に汎用性を失っていくのだ。これは多くの研究者にも言える傾向ではないかと思う。厳しい言い方をすればこれは一種の逃避でもある。幅広い知識で、専門事項をわかりやすく解説する人が求められるようになるのも無理はない。

 

 今、日本には数多くの専門家たちがいてそれぞれの分野で活躍している。もちろん、目立つ人もいれば地道に成果を積み重ねている人もいる。だが、社会が抱える問題の複雑化に伴い、専門家に求められる能力は総合力になりつつあるように感じる。研究を進める上では専門性の深化が重要だが、それを活かすための方法論を持っているのかどうか。専門家にもいろいろな対応がある。そして、本来は総合力を持った人たちが種々の社会問題に立ち向かうべきだと思うが、総合力を兼ね備えた専門家が減少しているのではないかと思うのだ。結果として、専門家でもないジェネラリストが専門家集団の指揮を取っているようになる。文系が企業経営する理系集団といった具合であろうか。

 そのあたりを打ち破れるような流れができてくると良いと思う。コロナにより世界中が苦境に立たされているが、こんな時期だからこそ新しい専門家、あるいは専門家集団が生まれてほしいと切に願う。もちろん、自分としても更なる研鑽に取り組みたい。