Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

死に知識と無駄の価値

 三角関数は必要かどうかの議論がでている(三角関数「生きるのに必要ない」「絶対いる」で議論沸騰(LIMO) - Yahoo!ニュース)らしい。これは合理性を追求する議論の中で良く出てくる考え方であると私は認識している。簡単に言えば無駄な投資を行わないで、自らの得意分野に集中した方が良いという考え方であり、逆に企業などでも手を広げすぎ失敗したケースも多い。あるいは、スポーツなどでは子供のころから英才教育を施すことで世界にチャレンジできる人を育てることも可能となる。だが、子供のころから一つの目標にチャレンジし続けても全てが成功する訳ではないのも事実。結局、本人に何が向いているのかが重要となる。また、企業において老舗と言えども常に何らかの革新を続けて行かなければならないが、その方向性が最初から見えているということはない。常に試行錯誤を続けることが重要で、専門性を深めるほどにその試行回数が減少するに過ぎない。

 特に、教育分野ではどこまで教えるべきかという問題は大きなテーマである。私が理想とする教育体制は、小中学校で必要な知識の半分を修め、高校からは徐々に自分の専門性に特化して行く形が良いと考えている。実際のシステムも、概ねそのように進められていると考えている。三角関数は現在高校1年の教育課程になっているので、幅広く知識を学ぶ段階から専門性を高める移行期に当たる。最近は高校でも理数科といった理系専門課程が存在し、ここで三角関数を教えるのは必須であろう。とすれば、普通過程でそれを教えるべきかという問題になる。だが、一般的に普通科では理系文系を2年生から3年生で分けるケースが多い。さて、1年生で三角関数を選択性にすべきかどうか。

 こう書いてきたが、この議論の本質は三角関数にある訳ではなく、わかりやすい例として取り上げられているに過ぎない。真に重要なのは、私たちが学ぶべき一般知識はどこまでであるべきかということ。例えば、中学時代から文系コースや理系コースが明確に分かれているとすれば、最初から文系を志望する学生は三角関数を学ばなくても良い。しかし、現状の教育課程はそうなっていない。逆に高校で特進コースや理数系コースなどが増加しているのは、社会が妥当だと思う専門性選択期が高校以降であると理解することもできる。個人的な意見を言わせてもらえば、大学に入ってからでも十分選択変更は可能だと思うし、そうした友人も多い。すなわち、早期に自分の進路を決めつけすぎるのは危険だと思う。

 翻って社会全体の事を考えれば、死に知識を学べるような社会こそが豊かな社会であると私は思う。もちろん勉強が嫌いな人にとっては無駄にしか見えないだろうし、早々に自分の進路を決定できる人にも面倒なだけかもしれない。だが、三角関数を利用した計算までは理解しなくとも、三角関数の概念は知っている状況であることは重要だと考える。概念さえ理解していれば、実は数学とは異なるジャンルでも概念が利用できるケースはある。ネット情報や書籍が容易に入手できるこの時代、実は学習しようと思えば学校に行かなくとも同等の勉強は可能である。学校に行くのはそれを効率的に勉強するためにすぎない。そこで真に学ぶべきことは、社会の知識がどのように広がり整理・体系化されているかと、物事を処理するためにはどのような思考方法が必要なのか(理系・文系にそれぞれある)。その上に、種々の知識の積み上げがあり、私たちは膨大な知識を記憶してきた。

 先ほども書いたように、こうした学修は学校でなくとも可能である。だから、学校で三角関数を学ばなくとも社会に出て必要になれば自己学修すればよいという考え方もあるだろう。だが、概念を知らずにいるとそれを学ぶのは容易ではないし、そもそも社会に出てからではそのための時間確保にすら苦労する。私が死に知識を学ぶ場がある方が良いと考えるのは、それを使わないと主張する人が少なからず存在したとしても、全体としての可能性を摘み取らないためである。逆に言えば、国が豊かであれば一見「死に知識」と見えるような内容も十分に教えることが可能になる。逆にそれを排除しようという考え方は、国や国民にそれだけ余裕がなくなっていることを意味するのではないかと思うのである。

 例えば、財務省と大学の研究費に関する議論を最近良く見かけるようになった(http://www.janu.jp/news/files/20181102-wnew-seimei.pdf)。双方の理屈とも私にとって理解できるものであるが、これが焦点となるのは国の財政状況が厳しいからに他ならない。だから、当面どうすべきかという議論と、将来構想としてどうすべきかという議論は分けるべきだと思う。大学にも様々な問題点があり、その改善は避けては通れない。だが、一方で国の将来を背負う根幹をなす大学研究・教育を追い込む形での施策には歯止めをかけるべきだとも思う。だが国が豊かであれば、いや再び豊かになろうと考えるのであれば、教育投資は出来る限り行うべきだと思う。もちろん最大の問題は、増えすぎた大学を国が減らす術を持たないことではあるが。

 やや話が逸れたが、予算削減のための合理化がそぐう場面は確かにあるし、日本の教育においても改善すべき点は山ほどあるだろう。しかし、学修の楽しみを知るのも研究を行うのも、いずれも遊びの発想が重要である。遊びにもルールがあり、その遊び方を如何に学ぶか、新たな遊びの広がりを如何に見つけ出すか。それを身に着けるためには合理化による最小限の制約があっては無理がある。無駄な側面があると分かりつつも、柔軟な発想を子供たちにに体得させるためには、部分的にそれが合わない子供たちがいたとしても、幅広いことを教えた方が良いと考える。縮小均衡の議論にはどこかで終止符を打ちたいものである。