Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

キャッシュレス社会は本当に便利なのか

 日本でキャッシュレス社会がなかなか広がらない状況(若年層の8割が「現金」主義! 難航するキャッシュレス化 若年層を対象に、電子マネーに関する調査が行われた | IoT Today - IoT(Internet of Things)の最新ニュースや企業&ベンチャー事例(ケーススタディ)をほぼ毎日掲載 -)を、あたかも世界から取り残されるかの如く報じている事例が多い(日本のキャッシュレス化はなぜ遅れているのか?|Have a good Cashless.~ いいキャッシュレスが、いい毎日を作る。~)。だが、ドイツやスイス等現金主義が未だ根強い国も決して少なくなく(現金主義のドイツと日本におけるキャッシュレス化 – アゴラ)、日本のみが取り残されているという話ではない。そう言えば十年ほど前にも、「ガラパゴス化ガラパゴス化 - Wikipedia)」というキーワードが日本の独自性を象徴するものとして飛び交っていたのを思い出す。確かに日本独自であったことが奇異に感じられた面はあろうが、必ずしも悪い事ばかりではないと思うのだが。最近の事例ではキャッシュレスの一つの形としてAmazonGO(Amazon Go - Wikipedia)のレジ無しシステムが実践的な事例として取り上げられたこともあった。確かに、レジ精算にかかる時間短縮は消費者に一定のメリットを与える。だが時間短縮であれば、極論を言えば買い物にすら行かなくて済む食料品配送の方が、時間短縮やストレスの軽減という意味でメリットが大きい。もっとも日々の献立配送システムは随分前から導入されているが、現在でも一部のニーズある人たち以上には広がりをみせていない。おそらくはコスト面で高いことに加えて、品質等を自分で選択できないことに対する当惑があるのではないかと思う。品質のみならず、買い物は日々の小さな楽しみであり、その楽しみを失うことに対する否定的な気持ちもあるだろう。

 こうしたキャッシュレス決済について、お財布携帯QR決済に替わることで流れが変化するとする向きがある(QRコード決済騒動に潜む地殻変動:日経ビジネスオンライン)。PAYPAY騒動も、トラブルはさておきキャッシュレス社会を見越しての大いなる動きであることは誰の目にも明らかであろう。実際、キャッシュバックに対して多くの国民が熱狂したのは事実である。こうしたキャッシュバックについては、以前よりポイントという形で人々は使いこなしており、どのようなものであるかを直感的に理解しやすい。技術の進歩が私たちの生活環境をどんどんと便利にしていく。

 だが、その便利さというものは本当に望む姿なのだろうか。便利であることに反対するつもりはないし、日本でも今よりはキャッシュレス決済が普及するだろうとは思う。だがガラケーが今でも一定の需要を持つように、そこまでの便利さが私たちに必須なのかは考える必要がある。こうした技術の普及は一面で便利さが広がることがあるが、同時に別の目的(例えばビッグデータ収集、資金の流れ監視等)が隠されているのは多くの人も理解しているだろう。キャッシュレス化進展の先陣は中国と韓国が走っている。特に中国では信用スコアの導入等、システムは個人監視の目的に役立てられている。犯罪監視に留まればよいが、それが国民統制に繋がるとすればもろ手を挙げて賛成できるものではない。この状況はキャッシュレス以外にもGAFAGAFA(がーふぁ)とは - コトバンク)をはじめとした企業が膨大な個人情報を集めていることも同様である。私はこのブログを書くことは行っているが、それ以外にSNSは全く使用しない。海外の人などからはFB(Facebook - Wikipedia)やLinkedIn(LinkedIn - Wikipedia)を聞かれるのだが、それには応えられないのが現状である。

 技術の発展が人々の暮らしを便利にしてきたことは間違いない。特に、医療・衛生系技術は人間寿命の著しい伸びを可能にした。人生50年(敦盛 (幸若舞) - Wikipedia)が、気付けば80年を超えている。それは間違いなく技術進歩がもたらした結果である。だが、技術進展により手にした便利さと引き換えに必ず何かを失っている。医療や衛生技術の向上は人々にとってメリットの方がずっと大きいが、それ故に私たちは成人年齢を遅くすることになった。長寿命化がもたらす負の側面は大人の幼児化という側面があると感じる。早く大人になる必要性が低くなってしまったのである。だが、その結果を招いても長寿命化は人類に恩恵を与えていると考えられるだろう。このように、両者の得失を考えるとき有利であると考えられればその技術は受け入れられ、そして社会に普及していくことになる。

 さて、キャッシュレス等に代表される便利さと引き換えに私達は何を失うのであろうか。私は世の中の不便さに直面した時、それを避けられないからこそ私達は楽しみに変える方法を編み出してきたのだと考えている。もちろん一義的には苦労は避けられた方が良い。だが、ワープロの使用により漢字を覚えなくなったり、スマホの普及により地図が読めなるなど、便利さの代償は私たちの能力の低下でもある。不必要な(あるいは機械を利用した方が効率的な)能力を技術に代替させていくのは人の幅広い能力を部分的に抑制する形でもある。これは一種の進化でもあるが特殊化である。そして、特殊化が進展するほどに環境変化に弱くなる。電子マネーは、価値をデータに依存する。安全性には最大限配慮するだろうが、その保証を一体誰が行うのかが明確でないと信用しきれない。電子書籍の一部が営業上の理由で閉鎖した際に、多くの人たちは購入したはずのデータにアクセスできなくなってしまった(「所有できない電子書籍」問題 サービス閉鎖後、購入者はどうなる? - ねとらぼ)。

 ここからの考え方は価値観により捉え方が異なるであろう。特に世代による理解は間違いなく変わってくる。生まれた時からあるサービスを当たり前だと思う世代と、そうでない私の様な世代とでは抱いている常識が異なるのだから。そして、古い時代の私としては何かに依存し過ぎるという状況を諾として受け入れがたいのである。歩きスマホが社会問題になることは多いが、例えば通勤電車の中でも本当に価値ある情報収集に時間を割いている人がどれだけいるかは疑問を持っている。過剰すぎるコミュニケーションや情報収集に時間を割くぐらいであれば、自分の思考を使った考え方の整理等に時間を費やした方が良いのにと考えてしまうのだ。目の前にあれば使わずにいられなくなる存在は、正直麻薬と変わらない。

 繰り返しになるが、私たちは便利さから得たメリット同時に何らかの技術であったり能力を失っている。その総計として自分が有利であると判断できれば、技術を受け入れることはやぶさかではないだろう。だが、それが微妙になるほどに宣伝に踊らされてはならないと考えてしまう。キャッシュレス社会は確かに生活の一部を便利にするが、同時に社会基盤的な脆弱差を抱え込むと同時に、実感としての貨幣の価値を軽んじることに繋がると私は考えている。便利さの裏側で私たちが手放してしまうものが一体何なのかをじっくりと考える必要があるだろう。そしてその閾値は人により必ず異なるものなのだ。